IV 赤くなかった“赤富士”(6)

ラベルに日本文のある奇妙なベルモットのボトル
ラベルに日本文のある奇妙なベルモットのボトル。果たしてこれは“本物”なのか

今回、FoodWatchJapanの原稿を書くことがきっかけで「大日本基準コクテール」ブックの実物を目にすることができたが、もう一つ、ここから改めて調べ直したマウント・フジカクテルについて、知られざるエピソードがあった可能性が出てきたことを「赤富士」リサーチの後日談として残しておきたい。

いぶし銀の脇役名優、ベルモット

 カクテルの代名詞とさえ言われ、多くのバーテンダーが一家言持つマティーニの必須アイテムでありながら、誰も語ろうとしなかったベルモットに関してだ。

 日本のバーで、初めて入った時に、最初にマティーニを注文するのは、かなり勇気のある人だと思う。

「ご注文は?」

「……ドライ・マティーニを」

 店内には緊張が走り、周囲の常連客は無関心を装いながら耳をそばだて、バーテンダーの次の言葉を待つ。

「ジンのご指定がございましたら」

 これは、知らない人にはファミレスでステーキの焼き加減を聞かれているぐらいにしか聞こえないだろうが、実際は初めて来店した客とバーテンダーの真剣勝負がすでにここから始まっている。

 ジンは冷やした方がいいのか。定番のゴードンでいいのか、軽めのビフィーターか、甘めのボンベイか、シャープなタンカレーか。なんなら銀座で定評のあるブードルスという手もある。

「あ、お任せで」

 バーテンダーの顔に一瞬苛立ちが浮かぶ。ここで「ウォッカで」と言われればジェームス・ボンドの話を出せばいいわけだし「なにかジンで」と繰り返されれば「カクテルの勉強に来た初心者か」と思われるのだが、この答えでは客が詳しくてフリーハンドを与えているのか、本当に知らなくて注文しているかがわからないからだ。

 このイチゲンはカクテルもろくに知らない人なのか、それとも知っていて店に来るなり、いきなり自分のバーテンダーとしての腕を試しに来ているのか。

 配分は。シェークにするのかステアでいいのか。オリーブはグラスに入れるか入れないか……

 と、まぁこんな感じで、初めて入った店の、それも1杯目にマティーニを頼むのは「ここのバーテンダーの腕の程を見せていただくよ」に近い、かなり挑戦的なニュアンスだと思ってもらっていい。そのためにこそバーテンダー諸兄は日夜「うまいマティーニとは」を日々模索しているわけなのだ。

 ところが、重要な脇役であるはずのベルモットについてはフランスのノイリープラット一択で、たまにチンザノ、変わったところでドンゾイノ、ごくごくまれにサスペンス小説マニア向けに古いキナ・リレを出してくるバーがあるくらいで、アブサンのようにその中身について研究している方はごくごく少数派ということになる。

 いろいろな映画に出ていながら名前を覚えてもらえない、いぶし銀の脇役名優のようなベルモットについての新たな話……読者にどの程度興味を持っていただけるか、一抹の疑問なしとしないが、知られざる戦前日本の洋酒事情ということで話を進めていくことにしたい。

日本語ラベルのベルモット?

ラベルに日本文のある奇妙なベルモットのボトル
ラベルに日本文のある奇妙なベルモットのボトル。果たしてこれは“本物”なのか

 その奇妙なラベルを身にまとったベルモットの存在を筆者が知ったのは、中野のとあるバーだった。古い物で、液面の目減りこそ少ないものの緑色の瓶に貼られたラベルは劣化が進み、文字は判読さえ困難なのだが、なによりも驚かされたのは、そのラベルが日本語で書かれていることだった。

「???」

「やっぱり、わかりませんか。僕もどうしようかと思っているんですが」

 嘆息を突いたバーテンダーの声に、僕は応える術を知らなかった。

 大正末期から昭和10年代にかけて、日本中に雨後の筍のように出現したカフェーに模造洋酒が跋扈していたことは先述した。日本に洋酒が輸入された始まりは拙稿「モダン・ガールは何を飲んでいたのか」でも触れたが、明治3(1870)年にカルノー商会がジンを輸入、翌明治4(1871)年カルノー商会がビールと猫印ウイスキーを、エフ・レッツ商会がヘニシ(ヘネシー)/蜂印(ビーハイブ)/ボレスタインの3社のブランデーを、コードルリエ商会がラムを輸入しているとされてきた。実際にはそれ以前から銘柄が確定できる輸入実績があったこともモダン・ガールの稿で述べているが、それは今回の本稿には無関係なので興味のある方はそちらを参照されたい。ともあれ日本に洋酒が輸入され始めたばかりの明治4年に、東京の京橋竹川町の薬種商、甘泉堂の滝口倉吉がリキュール製造に着手している。

日本精糖のラム酒の広告
日本精糖のラム酒の広告(「明治・大正・昭和 お酒の広告グラフィティ」/国書刊行会より)

 その後、ポートワインを中心にさまざまなリキュールやスピリッツの製造が盛んになり、明治12(1879)年に「歐米各國銘酒」として打たれた広告では近藤利兵衛商店が「オイラン酒」「カンムリ酒」なる「洋酒」は弊社商品が真正であり、模造品に注意されたしという広告まで出すほど人気を博していた。

 従来の日本洋酒史ではこれらを「模造品」として一刀両断に切り捨てているが、明治20(1887)年には西洋酒販売組合が認可を受けて60余社が名前を連ねて発足して産業として地歩を築いていたことと、明治32(1899)年に日本精製糖技術長鈴木藤三郎が自社敷地内に作った大掛かりな工場でラム酒を蒸留していたことを併せ考えると、あながち劣悪な模造品を作っていたところばかりではなかったことは書き残しておきたい。

模造品が出回った時代のものだが

ラベル上部
ラベル上部。傷みはあるが、まず日本語がかかれていることは間違いない

 いささか話が飛んだが、時代が昭和に至るころには明治以来ノウハウを蓄積してきた洋酒メーカーの側と、ビールとポートワインぐらいしか知らない消費者の知識量には、格段の差があったことになる。

 作る側はそこそこの品質の物が作れる一方、購入する側は本物のポートワインなど見たことさえなかった……という状況の中でさまざまな洋酒を使うカクテルが急速に普及した時代に、「カクテルを出して女給を並べただけで儲かるらしい」と見よう見まねで始められた地方のカフェーの酒棚を模造品が埋めたことは、ある意味で当然の帰結と言ってよかった。

 とくにモダン・ガールの稿で触れたジェット(ミント酒)や、ヘッジス&バトラーの後を受けて皇室御用達となったブラック&ホワイト(スコッチ)、ゴードンやブースのジンなどは後から後から模造品が出る“人気”ぶりだった。

 このような地方での洋酒の提供レベルを上げることが「大日本基準コクテール・ブック」編纂の目的でもあったわけだ……というところで、目の前の不思議な「ベルモット」の話に戻ろう。

 外国製に見せかけようとすることが目的の模造酒のラベルに、わざわざ日本文を表示する必要があるのか、という疑問がまず出てくる。

 真正品なら真正品で、なぜわざわざ日本でしか通用しない日本語で表記する必要があったのだろう?

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。