JBA版「マウント・フジ」に残る謎は2つある。そのうちの一つは、やはり「大日本基準コクテール・ブック」によって真実が明らかになった。明らかになったことを改めて正面から受け止め、日本洋酒文化史上記念すべき「マウント・フジ」の本当の価値に脚光を当てたい。
大人数の会議でレシピはできるか
前回触れた、レシピを考案したメンバーと協議の様子への疑問だが、筆者がこれを指摘する意図は、後世の後知恵でもっともらしい権威付けをすることへの疑問につきると言ってもいい。
「明日までにレシピを提出せよ」と言われて、これに応えられる人材は限られている。まず、多くのカクテルのレシピに詳しく、既存のカクテルと重複しないレシピを考えることができる人間でなければならない。また、多くの文献にすぐに当たることができる人間であることも必要だ。つまり、「大日本基準コクテール・ブック」(以下「大日本基準」)を編纂した村井か、彼に教えを受けていた品川がコアになるはずだ。そこにあと数人が加わる。それは、国際コンクールに日本バーテンダー協会として応募するので参集されたしと連絡を受けた翌日に、数寄屋橋のJBA事務所か近辺の店に来ることが可能だったバーテンダーということになる。
その数名があれこれ発案して……というのがいちばん無理のない検討の形だったと思うのだ。少なくとも、たった1日でレシピを考えねばならない切羽詰まった状況で、JBA機関誌「ドリンクス」の描写でイメージするような「どこかの会議室にバーテンダーの重鎮が大勢集まり、熟議を重ねた末に策定された」かのような書き方に、筆者は正直、違和感を抱くのである。
「佳作1等」という賞はあるのか
謎はもう一つある。このカクテルの歴史的な経緯を説明されるときに必ず出てくる「佳作1等」という表現だ。このスペイン・マドリードで行われた国際カクテルコンクールの受賞規定は、1等2000ペソ(当時の7円80銭/現在の約3万円)、2等1000ペソ、3等500ペソ、そして佳作は5名で、佳作を含む入賞・入選者「全員」に金メダルが贈られることになっていた。つまり、少なくとも応募規定を見る限り、佳作の中での1等とか2等とかの優劣はない。この辺りに関して筆者は10年以上調べてきたものの、佳作の中で「マウント・フジ」が別格扱いされた根拠を見つけ出せずにいた。
1等は1等だし、佳作は佳作。出品作1420余点のうち、1~3等と5点の佳作を含めて入賞・入選したのはわずか8作品に過ぎない。そこに選ばれたことだけで名誉とすべきだろう。さらに言えば、「マルチニ・クラブ」(1位/Alfredo Capitan氏)、「ビラ・ビセンソ」(2位/Miguel Reguera氏)、「ミラベル」(3位/Ruperto Wunsch氏)が歴史の闇に消えていった中で、「マウント・フジ」は80年近い時を経て日本のバーテンダーの誇りとして生き続けている。もし「佳作1等」の「1等」が後世になってからの後付だとしたら、昭和8(1933)年に得た栄誉を、むしろおとしめてしまうのではないか。
筆者がここまでこだわるのは、上述のような「マウント・フジ」誕生の経緯につきまとう霧を感じていたからだ。だからこそ、「大日本基準」を手にしたとき、筆者は真っ先に「マウント・フジ」を探した。
名誉とレシピの本質を大切に
「マウント・フジ」のページを見付けて記述に目を走らせ、当時のJBAの公式なコメントを見付けたとき、安堵とも落胆ともとれない複雑な思いが去来したことを今も思い出す。書かれていたのはこういうことだ――。
「審査の結果等外一等に入選上記の如き賞状を授與されました」
「等外一等」、つまり3等までには入らなかったが、その次にあたる賞=佳作を得ました、ということだから「佳作」が正しかったのだ。
JBAは同コンクールでの佳作受賞をきっかけに世界中のバーテンダーにその存在を知られることとなり、イギリスとフランスのバーテンダー協会だけでなく、フランスの酒造組合との交流も戦前から行われていた、と品川は後に語っている。そのことこそ、「マウント・フジ」誕生の経緯や受賞資格を誇張することよりもはるかに日本バーテンダー協会が誇りにすべきことではないかと思う。
カクテルの世界というのは不思議なもので、たった1滴のビタースや副材料(たとえばオリーブとパール・オニオン)で名前が変わるかと思えば、第20回=III 幻の「大日本基準コクテール・ブック」(4)で触れた「ダイキリ」のように、時代によって色が赤から白に「えいやっ!」とばかりに変わったりすることもある。「ダイキリ」との対比で白から赤に変わった「バカルディ・カクテル」については、裁判で「『バカルディ』以外の銘柄のラムの使用は認められない」という判例が現在も語られていることをご存知の方も多いだろう。
バーテンダーではない筆者などは「ホワイト・ラムの味の違いよりも、色の違いの方が大きいのでは?」と思うのだが、そこが嗜好品としての「遊び」の部分であり、工業製品なら許されないような極端に細かい定義とアバウトな変更の混在が、カクテルの世界にはある。そのことを知ったばかりのころは、大いに戸惑ったものだった。
それに目くじらを立てるつもりはないし、それだけの知識を持ち合わせているわけでもない。しかし、少なくとも戦前「極東の国、日本にもカクテル文化あり」と知らしめた「マウント・フジ」の功績から考えて、その誕生当初のレシピを正確に知ることは決して無駄ではないと筆者は考える。