ついに、現存する「大日本基準コクテール・ブック」原典に出合うことができた。外観、書誌情報、内容、いずれも驚かされることばかり。とくに内容の丁寧さは、著者の人柄と情熱を偲ばせるものだった。
「Standard Cocktail Book」
「お待ちしていました」そう言って迎えてくれた神戸のバーテンダーは30代くらいだろうか。
「秋田清六さん(高橋顧次郎、浜田晶吾、本多春吉と並んで、日本のカクテル草創期に伝説となっているバーテンダーの一人)が僕の師匠に親しくしてくださっていたので、そのときに秋田さんからいただいたものみたいです。僕がそれを譲り受けたのが、この本です」
高田馬場でその存在を知って以来、「ダイニッポン、ダイニッポン」と怪しげな宗教に憑りつかれたかのように呟いていた筆者が、ついに神戸で実物の「大日本基準コクテール・ブック」を手にするまでには、前回書いた3人に加え、あと2人のバーテンダーの恩恵があったことになる。
笑顔の彼に差し出された四六判(188mm×130mm)の書籍の表紙には「大日本基準コクテール・ブック」とは書かれていなかった。「Standard Cocktail Book」とある。「大日本……」は巻頭に書かれている、この本が誕生する以前の経緯を読まねば気付くことはなかっただろう。改めて、レシピだけではなく、前書きまで丹念に書き写してくれていた河原慈英という方に心中で感謝の辞を述べた。
布張りの贅沢な装丁で二色刷り。鮮やかなイラストを随所に織り込んだロンドン・サボイのカクテルブックまではいかないが、戦前の日本で出版されたカクテルブックとしては異例の豪華さと言っていい。
昭和11年3月発行で、価格は3円50銭。昭和12(1937)年にもりそばとかけうどんの値段8銭から10銭に変わり、阪急百貨店の看板メニューのライスカレーがコーヒー付きで20銭だったから、これをおおよそ800円とすると「大日本基準コクテール・ブック」は1冊1万4000円。当時としてはかなり高額だったことがわかる。
発行年が証言によって違う理由も、同書の前書きから明らかになった。本書に掲載されたレシピは、昭和6(1931)年頃新橋「ロリート」でバーテンダーとして勤務していた村井洋がテーブルの上に出したメニュー表代わりの「カクテルエピソード」に端を発していた。それを集成、加筆して日本バーテンダー協会機関誌「DRINKS」昭和7(1932)年7月号から昭和9(1934)年10月号まで「基準コクテールの研究」と題して掲載し、その後さらに1年をかけて加筆を重ねた末に、ようやく書籍として出版されたものであった。そのため、当初の連載を起点とした場合と、1冊の書籍として刊行された時期で解釈が違ってくる。
広く深い記述
フレンチのシェフやラーメン職人が脚光を浴びる現代とは異なり、戦前の飲食業に携わる方々の評価は決して高いものではなかった。そんな中にあって、当時はパリパリのエリートだった“学士様”=同志社大学卒業の肩書を持ってバーテンダーとなった村井洋は、珍しかったロイド眼鏡の外見にたがわず、当時の同業者の中でもかなり異色の存在だった。
竹馬の友である杉山信一と、村井からカクテルの初歩を教わり、後に自らも戦後版の「スタンダード・カクテルブック」を著わした品川潤によれば、村井は終戦を待たずに亡くなったという。
病弱だった村井が文字通り心血を注いだ「大日本基準コクテール・ブック」の内容は、とくに現在のアメリカのカクテルブックが1000だ、1500だ、果ては2500だとカクテルの掲載数を誇るのに比べれば、ホットカクテルやパンチ、ノン・アルコール・ドリンクを含めて474点と決して多くはない。特筆すべきはその内容だ。
JBAとして確定した配分の説明だけで終わっているカクテルは皆無に近く、「注1」「注2」として、由来、作る場合の注意点、さらには海外の著名なカクテルブックのレシピがどうなっているかといった説明にも踏み込み、なかには「注5」「注6」に至っているカクテルも珍しくない。
調べ尽くした上に基準を示す
たとえば、バカルディ・カクテルとの比較で現在でも赤いか白いかで論議が分かれている「ダイキリ」についても、Jacques StraubやJ.A.Grohusko、SavoyのHarry Cradockが白(赤いザクロのシロップとグレナデン不使用)、サンフランシスコで有名だったBoothbyが赤(グレナデン使用)と白の併記であることを説明した上で、世界的に見た場合は昭和11(1936)年の段階で赤が主流であり「日本バーテンダー協會は前記基準コクテールのようにグレナデンを使用するものをダイキリとガム・シロツプを使用するものをバカルデイと定めて一般に分り易くした」と、日本ではバカルディ=白、ダイキリ=赤とする、と明快に断じている。
戦後IBA(国際バーテンダー協会)がダイキリを白、バカルディを赤とする処方を定めたこともあって、現在のレシピは大日本基準コクテールとは逆が趨勢になっているが、カクテル・レシピの時代的な変遷という意味でも興味深い。
「マンハッタン」については8ページ、「マティーニ」については「前記マンハツタンコクテールと共にコクテールの始祖とも申すべき最も普及された混成飲料」として11ページ、現在のマティーニに近い「ドライ・マルテイーニ・コクテール(ドライジン2/3 仏蘭西ベルモット1/3 オレンジ・ビタース2滴)を含めると16ページに渡って各カクテルブックの配分を紹介しており、上記の配分が「在来我國に最も普及されたドライ・マルテイーニ・コクテールでどちらかと云へばドライの方がマルテイーニの色々の味のコクテールの中で一番有名なものである」として、戦前も今よりバームス(ベルモット。筆者はマティーニの本家、米語表記に近いバームスと呼んでいる。筋を通せばマティーニはマーティニが米語発音に近いのだが、なんとなく発音しずらいという安直な理由でマティーニと言っているので、これは筆者の単なるこだわりに過ぎない)は多いものの、現在に近いものが一般的だったことがわかる。
この稿ですべてのカクテルに関して「大日本基準コクテール・ブック」と現在のカクテルとの違いを詳述することは、カクテルブックならぬ本稿の趣旨やスペースの問題もあって難しい。しかし次回は、こうして発掘した「大日本基準コクテール・ブック」に掲載されていたたった1枚の写真から、戦前「オールド・ファッション・カクテル」で名をはせた一人のバーテンダーについて語りたい。