ワインのリーファー輸送を開始する企業が続く一方、既存輸送法で地位を築いてきた各社からは猛烈な反発があった。その中には、私がぜひ一緒に歩みたいと考えていた会社も含まれていた。
予想された猛反発
こんなことばかり書き連ねていると、師匠山岡氏に破門されるのではないかという懸念があったほかは、ワインのリーファー輸送実現への道は順風満帆であったかのように思われるだろう。しかし吉崎氏のケースは例外である。
これまで述べてきた通り、既存の輸送法を信奉してワイン業界に地位を確保していた企業や業界人の拒絶反応は凄まじかったのである。
それは予め予期していたことであり、私は六人会世話役安井康一氏に相談し、同会の総意としてワインのリーファー輸送提案をしてもらいたいとお願いした。しかし安井氏は「個人的には提案に賛成だが、会のメンバー全員の業界生命を危険に晒すようなことはできない」との返事だった。
離れていった営業マンたち
しかし安井氏は、「あなたと同じような考えの人間がいるから話をしてみたら?」と言って、氏の日本リカー時代の同期である西尾宗三氏を紹介してくれた。西尾氏は、倉庫会社からワインの入出庫を請け負う代行業務とワインの品質管理のコンサルティング会社ヴァンテックスを営んでいた。
結果的に、この西尾氏の行動力と協力がなければ、トータル・リーファー・システムは動き出さなかっただろう。当時、毛皮コート販売のエンバの倒産で空調倉庫がガラ空きで窮していた寺田倉庫と東西運輸にタッグを組ませた人物であり、日本リカーの契約倉庫新興海陸の下請け業務もこなしていた人物である。
さらに大きな視点で見直せば、日本リカーと親会社兼松江商(現兼松)の参入が、輸送改善を大きく推進させたのだ。
他方、安井氏の危惧――私自身も覚悟していたことだが――は現実のものとなり始めた。
乳業大手の我が店の営業担当T氏は、上司にワインのリーファー輸送参入を提案して怒りを買い、地方営業所へ左遷されてしまって音信が途絶えた。ニッカウヰスキーの担当営業マンM氏は、グループの洋酒輸入会社との方針の不一致に焦れてしまい、会社を辞めてしまった(このM氏は数年後に来店してくださり、電子機器大手に再就職したこと、元々理系卒だったらしく研究開発チームに配属され、都内本社と研究所をヘリで往復しながら充実した日々を過ごしていることを報告してくださった)。
出水商事の怒りを買う
Dデー――1986年4月11日付けの「酒販ニュース」でのワインのリーファー輸送提言公開以降は、逆風はさらに強まった。大手の洋酒輸入業者の営業マンたちの大半は、我が店に姿を見せなくなった。
そして出水商事(現イズミトレーディング)の“鬼軍曹”(私が勝手に付けたあだ名)関康弘氏から電話がかかってきた。「大久保さん、大変なことをしてくれましたね! うちの社長も○○先生も怒っています。今後あなたの店とは縁を切ります。○○先生もあなたを破門すると仰っています。今後一切連絡無用です」と言って、ガチャリと電話は切れた。
この○○先生には入門した覚えがないのだが、破門されてしまったのだ。
しかし、その後この関康弘氏と長い付き合いになるなど、このときは思いもよらなかった。そしてそれから1年半ほど経過したころだったろうか? 山坂社長の弟さんから電話をいただいた。「私は兄と○○先生とは決別します。他社でリーファー輸送でワインを輸入できたら連絡します」と言って電話は切れてしまった。
ワインのリーファー輸送は山坂御兄弟の仲まで引き裂いてしまったようだった。当時の私にしてみれば、出水商事こそは最も賛同を得たかったフランス・ワイン輸入業者だった。