1984年の終わり頃、ジエチレングリコール混入ワインが流通していることが発覚し、翌85年には日本でも大騒ぎになった。この事件は、大久保氏の“品質管理の師”にリーファー輸送を認めてもらうきっかけとなった。
降って湧いた“全面自粛”
師からの破門宣告を怖れて悶々としていたのが1984年初秋だった。ところが、そこへ思わぬニュースが飛び込んできて、私にとっても思わぬ展開となっていった。
ジエチレングリコール混入ワイン事件だ。
ドイツ・ワイン、オーストリア・ワインに、ジエチレングリコールが混入したものが見つかったのだ。日本国内でも、翌1985年には厚生省(当時)の指示で両国ワインは販売自粛を強いられたのである。本来、酒類業界は大蔵省(当時)国税庁の管轄下にあるのだが、突然の厚生省の介入であった。
ところがこの間、国税庁と日本洋酒輸入協会の行動は不可解の極みであった。ドイツ、オーストリア両国政府からブラック・リストが届いていたにもかかわらず、公開しなかった。酒類については門外漢であった厚生省は、早急な対処を迫られるも寝耳に水の態で、ドイツ・ワイン協会にお鉢を廻してきた。
ところが、同協会会長の古賀守氏は、突如行方不明となっていた。業を煮やした厚生省は、我が師でT山岡&サンズ社長の山岡寿夫氏を事務局長指名し、行方不明の古賀氏を会長として「ドイツワイン安全推進協議会」を立ち上げさせた。
だが、厚生省にはドイツ、オーストリア両国政府からのブラック・リストがないのである。それでどうなったかというと、厚生省はやみくもにドイツ・ワイン、オーストリア・ワインの販売自粛を指導し始めた。
リーファーが師を救う
頭を抱えたのは、事務局長に据えられた山岡氏だ。ドイツ・ワイン専門ワイン業者であるT山岡&サンズの商売ができないのである。すると、同社の大口販売先である都内有名ホテル各社バンケット部門も、ドイツ・ワインをサービスできないのである。師匠山岡社長の大ピンチであった。
「大久保君! 安くて質の良いフランス・ワインを大量在庫している業者を知っていたら教えてくれ! ウチはノー・マージンでもいいんだ! 各ホテルともバンケット用ワインに穴を空けることは許されないんだ!」
――何という展開であろうか? 告白の時を見出せずに悩み果てていた私に、時がさえずりかけてきたのである。
「あります。安くてうまいはずです。温度コントロールして運んだ、南仏ルーション(Roussillon)のワインです。着いたばかりで、航空便サンプル以外は私もまだテイスティングしてませんが、合計700ケースほど……」と答え、手短に「リーファー輸送提言」の経緯を伝えた。
「全量押さえられるかな? 頼む! さらに追加輸入できるかも聞いてくれないか?」
日軽商事の輸入第一便が入荷した直後の話であった。日軽商事側も唖然としていた。私の優柔不断さが、山岡氏のピンチを救った事件ではあった。それとも“ワインの神様”が仕組んだのであろうか?
ブラック・リストを入手
一方、私の知人M氏が件のブラック・リストを入手してくれた。西ドイツ保健省発表とオーストリア農水省発表のものだった。私とM氏は、その中から日本に輸入されている該当ワイン名と該当輸入業者名の一覧表を作り、ドイツワイン安全推進協議会事務局長山岡氏経由で厚生省へ渡していただいた。
数日後、私の店にも保健所スタッフが来店した。売り場に並ぶドイツ・ワインを見とがめて、「困りますねえ! チャント販売自粛を守ってもらわないと! 営業停止処分にしてもよいのですか?」と言う。
その保健所スタッフの手元を見て、私は笑い出してしまった。「何がおかしい!」と、彼は怒っている。私は「それ厚生省から届いた一覧表のコピーでしょう? 清書する時間もなかったんだね! これが手書きの原表だよ。それ、私が厚生省に提供したリストだよ。安心してよ! ここには該当品は1本もないから」と言って、ドイツ、オーストリア両国政府からの分厚いブラック・リストの原本も提示して見せた。
この「ジエチレングリコール混入ワイン事件」は、やがて終息に向かうわけだが、私自身はその後も釈然としないものが胸の内を占有していた。この騒動で問題となったのと似たような代物は、それより以前からあったかもしれないと感じていたからだ。