ブランドに関する書籍やセミナーで、「とらや」が“お手本”として取り上げられることは多い。しかしながら、私は「とらや」についていささか厳しい目を持っている。今回は、私の見聞と意見をお伝えする。
六本木に登場した“ブランドのお手本”
ただし最初にはっきりと申し上げておきたい。今回実名を挙げて「とらや」を取り上げるのは、本を読んだり人の話を聞いて鵜呑みにするのではなく、現場・現物・現状によってものを考える“三現主義”を推奨するためである。ブランドを考える際も、個々人が現場・現物・現状を自分で確認した上で、それぞれの視点と意見を大切にしてほしい。
したがって、以下に紹介する「とらや」に関する見聞と意見はあくまでも私自身の経験に基づくものであり、それが誰にとっても真実だと主張するものではない。「とらや」の評価はあくまでも消費者一人ひとりが独自に行うべきである。また伝聞によって無用の誤解を招かぬよう、本稿の内容をむやみに吹聴することはお控えいただきたい。
2007年、鳴り物入りでオープンした東京ミッドタウンの「とらや」を訪ねたのは、2008年11月末のことだった。
恩師の一人が、常々この伝統有る和菓子店を、成功し確立されたブランドの典型例として話され、その伝統が東京ミッドタウンでの新しい試みによってさらに進化したブランドになって行くのだとよく話されていた。そのこともあり、私はこの店をぜひ訪ねたいと考えていた。しかしながら、どうも出かける機会に恵まれず、最初の訪店は開店から1年半以上が経ってしまってからとなった。
東京ミッドタウンは、この施設自体のオープンが大変な話題を呼んだものである。数々の話題の店が出店し、多くの人の足を六本木に向けさせた。六本木一帯も、これによって一層現代的な、リッチで高質なイメージを持つ街としての景観を高め、賑わい、華やかさを、当時独り占めした観があった。
そこへ、格式の高い、長い歴史を持つ高級和菓子店が出店した。新しく造形的に作り出された街にふさわしい形で、著名な設計士、デザイナー、あるいは新しい感覚を持つ自社のスタッフを大胆に起用した。そして、これまでの店舗とは大きく異なる、新鮮な実験を試み、伝統をさらに進化させる店舗という触れ込みでオープンした。
書籍で紹介された新たな挑戦
そのパブリシティーとしての側面もあると思うのだが、のれんの歴史と、東京ミッドタウンへの出店に至るストーリーが書かれた「老舗ブランド『虎屋』の伝統と革新」という本も出版された。ブランド論に関心のある向きを中心に、この本も相当に話題となった。
本の語りは、なめらかかつ情緒を醸しながら、この新店開店に至るまでの苦労話、菓子作り・店作りの「こだわりの繊細さ」を綺麗なストーリーにまとめている。
東京ミッドタウンの店舗は、伝統と新しい試みの調和を表現すべく設えたという。深い思い入れも書かれている店頭の大きな「のれん」をくぐり、店へ向かって左翼側には、ギャラリーと呼ぶ、風格と斬新さを表現する空間を作った。著名な陶芸家の手になるという特別な四角い空洞を持つタイルで構成したギャラリーでは、四季折々の和の伝統工芸品を並べる。壁面に調和する白色の展示台でそれらを紹介し、和菓子だけでなくそれら伝統工芸品をも同時に販売するという試みも取り入れたという。
一方の右翼側には、やはり件の白タイルをふんだんに使った高質な空間の喫茶部門を配置する。これまで「とらや」が扱ってこなかった、東京ミッドタウンのこの店にしかないという新しい和菓子などのメニューを提供するという。
歴史と伝統を持ち、日本文化の一つを代表する和菓子の世界を、新しい店舗空間に展開する。高級和菓子店の持つ格式を、街の持つモダンさに調和させ、若い世代にも容易に受け入れられることを狙う。そのセンスあふれる構想。書中繰り広げられるイメージとアイデアには大いに興味をかき立てられた。
汚れ、傷み、欠ける気配り
ところが。結果を一言で言えば、私が抱いたイメージと期待は、ほぼトータルに打ち壊されてしまった。
大きな「のれん」こそ、きれいにかかっていた。ところが、趣向を凝らしたと言う白い高級タイルの空洞部分には薄黒く埃がたまっていた。ギャラリーの純白であるべき展示台は、すでに台の表面すら汚れを浮かせていた。とくに、台の側面と角の部分はものが当たるためか木肌が出ているところがあったり、靴のかかとやつまさきがかすったらしきどす黒い線を残していた。
また、「ギャラリー」と称するには展示の内容もいささか見劣りがした。展示に関してのストーリーも感心するものはなかったし、500年の歴史を誇る店が紹介する日本文化に値するものなのか、私には判断しかねた。
ギャラリーと喫茶部をつなぐ中間部は、とくに意匠や工夫が凝らされているとは思えない。来店したお客の視界に最初に飛び込んでくるものは従業員の出入りに使用される扉となっている。材は味気もない茶色がかったデコラ板らしいもので、しかも優に1間はあろうと思われる幅でむき出しになっているのには驚かされた。しかも、スタッフの出入りはかなりあり、その都度厨房の中が見えるのである。
さて喫茶部である。当然この空間には、まったりと高級な和菓子のメニューを楽しむための優しい光や、清楚なカーペットや、座り心地のよい椅子や、趣向を凝らしたテーブルが設えられていることだろうし、あるいは香の一つも焚かれているかもしれないと期待を膨らませていた。
が、しかしである。私にはその椅子・テーブルのチープさは我慢ならなかった。カーペットは汚れ、大きなウインドウを覆う白いカーテンは薄汚れ、すでにねずみ色とすら感じさせるほどになっていた。窓際の長椅子のクッションには、座った人の形を想像させるひずんだ跡が残っていた。
喫茶部のキャッシャー上部の天井板はずれており、天井内部の隙間がはっきりと見えた。
サービスはどうか。高質なCS(カスタマー・サティスファクション)が語られることが多いこの高級和菓子店にしては、お茶の出し方にも気配りは感じられなかった。その茶托すら傷んでいる。箸が盆に載せられて出ていても、箸置きもない有様であった。メニューにも売り切れがある。
伝統ある店の最新店で、話題性がある。場所もよい。だから、予想以上の来店が続いていたのかもしれない。そのために、メンテナンスが追い付いていなかったところへわれわれが訪店し、このようにお互いにとって不幸な体験となったとも考えられる。だが、いくら多忙でも、いくら開店後1年半余を経過したと言っても、傷みや汚れなどが放置され、500年ののれんにふさわしいものが保たれなくなることが許されるものではあるまい。
ともかくも、これはもう本で読んだ世界とはあまりにも違っていたし、聞かされていた伝統、格式、CSのよさといったイメージは、残念ながらほとんど感じられなかったのである。
凡事の徹底ができない謎
とは言え、一度の訪店で切り捨てるわけにもいくまい。それから2年後、「あれは何かの間違いであったかも知れない」と願いつつ、再度訪店した。しかし、その願いはいとも簡単に裏切られ、期待は完膚なきまでに打ち砕かれた。
カーテンはきれいになっていた。クリーニングしたか、取り替えたかしたのだろう。だがそれ以外の状況は、基本的に何も変わっていなかった。キャッシャー上の天井板のずれまでそのままだった。むしろ多くは悪化しているように感じた。スタッフたちは、私語なのか業務連絡なのか知らないがお互いのおしゃべりに忙しく、お客の方を見ることも稀であった。
私も懲りないものだが、3回目。これは2回目の訪店から約4カ月後のことだ。その間にカーペットの清掃がなされたらしく、その汚れは以前よりはいく分ましだった。しかし、ほかは基本的に2回目と同様だった。
かくて三度目の正直を実体験した上で、残念な思いを抱きながらこの稿を記した。繰り返し述べるが、私はこの3回の訪店で“三現主義”の大切さを改めて感じたし、読者のみなさんにも、ぜひ実際に店を訪ねた上で、ご自身の目で見聞し、ご自身の感想と意見を持ってほしい。本やセミナーで得た知識だけでは、あるいは本稿を読んだだけではわからないことがあるはずだ。これは、何もこの超高級和菓子店に限らない。
それにつけても、清掃やメンテナンス、あるいは人への配慮といったものは、ある意味では些細なこと、つまり凡事である。その凡事の積み重ねに過ぎないことによって、ブランドの大部分は作られる。ところが、多くの店、会社、人が、これを苦手としている。なぜ凡事の徹底が実践出来ないのかと、人間の性について考えさせられる。
加えて申し添えれば、「とらや」の菓子は実際に高品質でおいしいものだ。これを、実際に本に書かれた通りの空間で食べることができたら、どんなにか幸福感を味わえたことであろう。残念に思う気持ちでいっぱいである。