売上げの伸びないハーレーダビッドソンのブランドを建て直し、日本で最も売れるオートバイに返り咲かせた立役者、アンクル・アウルこと奥井俊史氏が、食ビジネスを新しい視点で観察し、提言します。今回はよいものと信じる心とコストの釣り合いを考える話題をお届けします。
“つまらない迷信”にされてしまったイワシ
今月は節分がありました。今回はそれにまつわる諺「鰯の頭も信心から」のお話です。なるほど、現在においてもこの諺は今にも立派に、かなり広範囲に生きていると思い知ったことがあったので、そのことに付いて書いてみます。
ご存知のように、イワシは世界に広く分布している魚で、世界の漁獲量で最大を占めています。種類も多い魚で、日本語ではさまざまな呼び名のイワシに分類しています。日本よりは一般社会の魚への関心が薄い英語圏では、イワシの語彙は貧弱かと言うと、そうでもないようです。たとえば、イワシ一般はsardine。カタクチイワシしの仲間はanchovy。太平洋産のマイワシはpilchard。ウルメイワシはround herringということで、なかなか充実しています。アンチョビなどは、最近はむしろ日本語に入ってきています。
イワシはかなり古くから食用に供されてきたようです。また、乾燥した「ほしか」(干鰯)は肥料となり、江戸後期からワタやタバコ栽培で盛んに使われるようになりました。より高い肥効や即効性を狙って、骨粉に加工した魚粉も用いられました。
このように、日本人とイワシの付き合いは古く、近代の産業にも大きな貢献をしてくれた魚です。
「童謡詩人の巨星」と呼ばれた金子みすず(1903~1930)は、「大漁」と題して、このように詠んでいます。
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
濱は祭りの
やうだけど
海のなかでは
何萬の
鰮のとむらひ
するだろう。
この詩でみすず自身も有名になり、イワシも改めて心に強く記憶される魚になりました。
このイワシが、いつのころからか民間信仰と結び付きます。近世には家の表鬼門に当たる北東に「鬼の目を刺す」ほどに硬く鋭いとげを持つヒイラギを植えたり飾ったりし、もう一方、裏鬼門に当たる南西の方向には、「鬼をも払う」とされたイワシを飾るようになりました。
イワシはもともとにおいが強い上に、日持ちも悪く、ために強い臭気を放って鬼払いとして使われるようになり、これが節分における風習となって行ったと説明されることが多いようです。
その後、節分ではとくにイワシの頭をヒイラギの小枝に突き刺して戸口に挿すことが一般化していき、ヒイラギイワシと呼ぶようになりました。
ところが、なぜかイワシの頭は見くびられていき、「イワシの頭のようなつまらない物でも、信仰すれば非常に貴い物に見える」と、“つまらない迷信”を代表するかのごとくたとえられていきました。その結果が、「鰯の頭も信心から」なる諺です。
手作りお守りを企画したところ……
農林水産省のHPには、「面白い魚のことわざ集」で紹介されている「昔は節分の日に、ヒイラギの葉とともにイワシの頭を門口に刺し、魔よけにする風習がありました。転じてつまらないものでも、信心次第では値打ちがあるということです」という解説があります。
ヒイラギイワシを“つまらない信仰”と断ずる考えは、私はいささか同意しかねます。たとえば、平安時代にもすでに魚の頭とヒイラギを戸口に刺す風習があったと言われていて、この信仰の起こりはもう少し古いようです。また、何らかの理由、神話的背景がなければ、「つまらない」ものが、全国的な習慣として広がるはずはないのではと、考えるからです。
ただし、「信心次第では値打ちがあるということです」ということ自体は、その通りと思います。というのは、まさにこれに当てはまることに出くわし、ショックを受けたことがあるからです。
ことの起こりは単純でした。私がハーレーダビッドソンという米国製の大型オートバイを販売していたときのことです。
乗る楽しみを売る仕事でしたが、自因・他因によらず事故の発生は避け難いもので、安全に配慮し、交通安全を呼びかけたり、交通安全運動に参加・協力することは非常に重視していました。
とくに、我々自身の働きかけで2006年に大型バイクの高速道路での2人乗りが解禁となりましたが、2人乗り(タンデム)の楽しみは、何と言っても男女2人のペアーライドが中心になります。そこで、解禁された喜びを表現し、同時に恋人たち・夫婦たちの交通安全を祈願するためにイベントを企画しました。
ペアーライダーにお守りを用意し、それを互いに交換しあって、互いの安全を祈願し合うセレモニーを行うことにしたのです。これをツーリングの楽しみの一つとして加えてもらう。
私の在任中のハーレーダビッドソンジャパンは、とにかく何でも自社で、自分たちでやるということを旨としていました。そこで、このイベントでも特別なお守りを自分たちで作り、ツーリングした先の神社・仏閣でお祓いを受けるということにしました。
そこで悩んだのが、どんなお守りにするかです。我々としては心を込めて作りたい、ペアーライダーたちにも喜んでもらいたいし、なにより御利益のあるものであってほしい。そのためには、どのような品質のお守りを作ればよいかと考えたのです。
ボール紙に命を託すことはできるのか
なにぶん、やったことのなことですから、その世界の基準を知る必要があります。それで、オフィスの周辺の神社・仏閣からいろいろな値段の「交通安全のお守り」を買いあさらせたのです。
まず驚いたのは、オフィスから徒歩圏内にある寺社だけでも、優に30以上があったことでした。大都市だからということもあるでしょうが、後で調べてみると、全国の神社・仏閣の数は7万~8万もあるそうです。あれだけよく目にするコンビニさえ4,300店前後ですから、やはり非常に多いのです。さらに、交通安全のお守りは、どの神社・仏閣でも売られており、しかもその価格幅も広いことがわかりました。オフィスにはあっと言う間に大量の交通安全のお守りが集まったわけです。
しかし、本当に驚いたのはそれからです。おそれ多いとは思いながら、交通安全祈願のためということで、そのお守りの一つひとつを開けて、中を拝ませてもらったのです。そこで私は唖然としました。中身は何も書かれていない、ただの、一般的に言うところのボール紙である物があまりにも多かったことです。きれいな袋に入っていても、肝腎なのは中身のお札だと思っていたので、私は本当に力が抜ける思いでした。
もしお疑いでしたらば、みなさんも今お持ちのお守りに十分願を掛けた上で、こっそりと拝ませてもらってみてさい。かなりの方が、“イワシの頭”にご自身の身の安全なり健康なり成功を託されているはずです。
詳しい人によると、まさに“イワシの頭”で、お守りの材料という物体ではなく、そこに込めた信心が大切なのだと言います。お守りに限らず、神社のご神体でも、物体としてはあっと驚くようなものが安置されていることも珍しくないそうです。
その考えはなるほどとは思います。しかし、真剣な願いを込め、場合によっては相当なお金も支払ったお守りが、ボール紙だということは釣り合いのとれたことでしょうか。もし、神仏への信仰が金もうけの材料に利用され、お守りの品質がコストだけで判断されているとしたら、はなはだ残念なことです。
結局、私たちはいろいろ検討した結果、丁寧に磨いた白木に焼き印を入れたお札を作り、お守り袋に納め、それをお祓いしてもらってお守りとしました。あれならば、仮に中を改める人がいても、絶対に失望感を与えない自信があります。信じるならば、物理的には何でもいいというわけではないと思います。
それにつけても、人間とは本当に弱いものですね。「人弱」と書いてイワシと読みますか。