1803年に長崎のオランダ商館長としてヘンドリック・ヅーフが着任した時代は、オランダという国自体が存亡の危機に立たされた苦難の時代だった。そのなかにあって生活に困窮しながらもオランダ人としての誇りを最後まで失わなかった彼に、当時の日本人も敬意の目を注いでいたことを前回は説明した。
監視役の庭にあった材料
「何かヅーフの力になれることはないか」そう強く思った日本人の一人に茂伝之進がいた。
長崎奉行所の通詞目付という肩書の彼本来の職務は、ヅーフの監視役だった。今で言えば警視庁公安部外事課の刑事というこわもての肩書きになるだろう。その彼が、今度いつ来るかわからないオランダ船を待ち、望郷の念にかられるヅーフのためにひと肌脱ごうとしたのには、前回説明したような誇り高いヅーフへの敬意、日本人の弱きを助け強きをくじく判官びいきの気質、そしてフェートン号事件で乱暴狼藉を働いたイギリスに対する反発という時代背景があった。
1811年のオランダ商館。1809年、イギリスの目を逃れて長崎にオランダ船フーデ・トラウ号が滑り込んできてから2年、オランダからの船は途絶えていた。船が途絶えれば商売にならないし食料も購えない。ヅーフは所蔵の書籍を売って糊口を凌いでいたが、オランダの酒はそれからずっと口にしていなかった。ヨーロッパとの貿易をオランダ一国に限定していた当時の日本には、それを得られる手段があるはずもない。
来る日も来る日も海を眺めて望郷の思いに駆られるヅーフと親しかった茂伝之進は、ヅーフとの会話でオランダにジュネバという地酒があり、それはアルコールを蒸留したスピリッツに杜松子(としょうし)を浸して香りを移したものだと知る。
時は少々遡り、まだオランダの国威が凋落していなかった頃のこと。オランダ商館長は4年に1度、幕府に参上してオランダ風説書を提出することになっていた。その儀式出席のために江戸に向かう隊列に、カール・ペーター・ツェンベルクという医師の姿があった。彼は道中の箱根で、オランダで見覚えのある1本の低木に目を留めた。警備の侍の許可を得てそれを長崎に持ち帰った彼は、懇意にしていた侍にその株を託した。
この侍こそ、長崎奉行所のオランダ語通詞で茂伝之進の父茂節右衛門であり、茂の家の庭で今も元気に育っていた低木こそ杜松(和名ネズ。ジュニパー)であった。
聞けば、簡単な蒸溜器ならオランダ商館にあるという。
材料と道具はそろったが
蘭学書でアルコールの製法を書いた本は、文政5(1822)年の「遠西醫方名物考」第三十一巻「焼酒の部」とされているが、それ以前の日本に蒸留酒がなかったわけではない。
室町時代の1559年、鹿児島に建立された郡山八幡神社に「施主の神主がけちで焼酎の振る舞いもなかった」と大工と思われる人物の手で書かれたもの(郡山八幡棟木札)が昭和34(1959)年に発見されたことで話題になったことがある。さらに、それ以前にも李朝実録の1477年版やフランシスコ・ザビエルに宛てた「日本報告」(1546)に、琉球や薩摩での製造記録が残っていることから、日本の蒸溜技術はヨーロッパではなく東アジアから入って来たと推察される。
江戸時代後期では、「東海道中膝栗毛」(1802年~)の静岡の三島宿で「目のまわる焼酎を買わしゃいませ」と売り子が呼び掛けている描写があるから、19世紀初頭には関東まで焼酎、つまり蒸留酒が普及していたことがわかる。したがって、1811年の長崎で茂伝之進がオランダ商館の蒸溜器を借り受けてスピリッツを作ることは可能だった。
彼はオランダ人が好むブランデーとジンをなんとか作ろうと試みる。これは今回のテーマからは外れるが、ヅーフ本人も研究熱心な人だったようで、ショメールの「日用百科辞典」などを調べてビールの試醸に成功したという。
さて茂伝之進とヅーフが作った酒、味はどうだったのだろうか。今から200年も前、それも個人が行った試作だから、味については醸造や蒸留のプロが作るものには及ばなかったのではないだろうか。
間庭辰蔵の「南蛮酒伝来史」(1976年)によれば、ブランデーはかなり上出来だったものの、同じく醸造を試みたワインは失敗、ビールは何とかそれらしいものが出来たものの、日本で当時ホップは栽培されていなかったから現在のビールとは別物であった。
今回追っている肝腎のジュネバは、アルコールの蒸溜まではこぎつけたものの、ジュネバの“アク”を除去することができず、オランダにいた頃のヅーフが口にしていたジュネバにはほど遠いものだったと伝えている。
しかし、遠い異国の地で一人のオランダ人が最後まで自国の誇りを捨てようとしなかったこと、そして彼の望郷の念を知って、日本で初めてジンばかりかブランデーやワインを作ろうとした一人の侍がいたことは「洋酒文化の歴史的考察」としては指摘しておきたい。
ここでヘンドリック・ヅーフが直面していた“弱小国の悲哀”は、それから40年後の開国間もない日本が同様に味わうことになるものだが、その前の一服の清涼剤のように感じられるエピソードではないだろうか。
次回はいささか脱線になるが、ジンを調べているうちにわかってきた「瓶」の話について話を進めていきたい。