先行してシェアを広げていた「蜂印香竄葡萄酒」に挑んだ「赤玉ポートワイン」。この両者はともに“ワイン”の部類と思われるが、実は全く異なるジャンルの酒である。さらに興味深いのは、「赤玉」は「蜂印」に対して不利な部分で勝負をかけ、費用をかけて広告を展開した点だ。
薬草を使わず薬効を訴求
たとえてみれば、「森永の牛乳」と「紀文の豆乳」がお互いに覇を競っていたようなものだ――と言えば筆者の驚きを理解していただけるだろうか。戦前のワイン市場を巡って争っていた両雄だが、ジャンル的には似て非なるもの、ありていに言えばワインの初歩的知識のある人から見れば全く別物になる。
さらに言えば、この争いに参戦していた「人参規那鉄葡萄酒」もジャンルでいうとデュボネやサン・ラファエルと同じ「カンキナ」(キナ・ワイン)であり、戦前日本のワイン戦争は、ポート系 vs ベルモット系 vs カンキナ系の三つ巴の異種格闘技戦だったことになる。
こういう場合、具体的な薬効を謳えるばかりか販売力でも抜きん出ていた蜂印が、必然的に赤玉よりも有利な立場になる。素人考えで行けば、鳥井が取るべき道は蜂印に対抗して薬草を使うことだったようにも思える。何しろ鳥井は小西儀助商店と言う薬種商、今でいう薬屋の出身であり、漢方薬≒香草=ハーブ類の入手ルートも、安く購入できる先にも不自由はしていなかったはずだからだ。
荒っぽい言い方をすれば、知り合いの薬種商から買い求めた手近なハーブを何種類かガーゼの袋にでも入れて、目の前のワインが詰まった酒樽に放り込めば、それだけで薬効を謳えたはずなのに、鳥井はその道を取らなかった。取らなかったばかりか、ポートワインではベルモットに対して圧倒的に不利なはずの「効能を訴える」という逆手を打った。
鳥井は、手始めに著名な医学博士を口説き落として推薦文を書いて貰う。明治44(1911)年に4人の医学博士と1人の薬学博士、陸軍軍医監(軍医の総元締め)で始まった赤玉の“効能宣伝”は大正元(1912)年には7医博、昭和2(1927)年に15博士と増え続け、昭和14(1939)年には列挙された医博の人数は60人に及んだ。
サントリーの社員が現在でもよく口にする同社の社風に「やってみなはれ」がある。いざというときに鳥井がよく口にした言葉なのだが、「これでもか」と言わんばかりの鳥井の広告戦略を見ていると、「とことん」という言葉を「やってみなはれ」の前に付けたくなってくる。
その一人ひとりに高額な謝礼を支払い、その後も盆暮には銀製のウイスキーグラスやプラチナの鎖などの付け届けを欠かさなかったと「美酒一代・鳥井信治郎伝」(杉森久英)にあるから、旧知のルートで薬草を買い求めてワインに浸すのと、どちらが直接的で安く済むかはベルモットのボタニカル調べでアッサリ白旗を上げた筆者でも容易に想像がつく。
ポートワインへのこだわり
鳥井はなぜ得意分野であるハーブ類を使うことなく、蜂印に比べて不利なはずの効能広告に大枚をはたいて赤玉を売ったのだろう。これは筆者の勝手な推測になるが、オリジナルと製法は異なるものの「ポートワイン」という名前で許容される範囲が彼なりに厳密にあった(本家ポルトガルのポートワインも添加されるのはブランデーだけで、ボタニカルは使わない)こと、がまず筆者の脳裏に浮かんだ。しかし、鳥井は赤玉ポートワインを売り出す1年前に「向獅子印甘味葡萄酒」を発売している。この名前なら「ポートワイン」の名称に縛られることなくハーブでもキナでもお構いなしに入れられたはずだが、鳥井は飽くまで赤玉ポートワインにこだわり、遠回りなうえに金がかかる“推奨文PR”作戦を押し通した。その一番の理由は、自ら手掛けた赤玉ポートワインを愛し、その味や調合はもちろんだが、「ポート」という名前に手を付けたくなかったからでは、と筆者は想像する。
逆転の発想で宣伝攻勢をかけた赤玉ポートワインは徐々に売れ始め、その後昭和4(1929)年に国産初のウイスキー「白札」を世に出すための貴重な原資を鳥井にもたらすこととなる。
今回はベルモット系を含めた異種格闘技戦が主題であるので詳しく述べなかったが、赤玉の好敵手だった蜂印の創業者神谷傳蔵と2代目傳兵衛は、ドイツ人ブルーノグライフを招いてドイツ流の「東陽ビール」を世に出したほか、ベルモット型の「蜂印」に満足することなくスティルワイン(通常のワイン)の国内生産を目指して明治34(1901)年に牛久シャトーを開いた立志伝中の人物であり、有名な「神谷バー」と「電気ブラン」とも絡んでくる話題になるので、神谷に関してはいずれ機会を改めて触れることとしたい。