茶樹(チャノキ)の原産地は中国雲南省、ラオスとミャンマーに接するシーサンパンナと言われています。当地での茶は、古くから薬草としての位置づけが強く、大事に利用されてきた植物であったことは確かです。
これが陸路で朝鮮半島を伝って我が国に入ってきたようですが、「チャ」という言葉は広東語から来ています。
これに対して、福建省の港から海路ヨーロッパに渡った伝播もあります。こちらの方は、福建語で茶を「テ」と発音することから、ヨーロッパを中心にティー(tea)になったということです。
日本で生まれた日本型の緑茶
茶は葉を摘み取った後そのままにしておくと醗酵します。醗酵と言っても酵母やヨーグルト菌のような微生物が働くのではなく、茶葉自体が含む酵素によって酸化していくのです。ウーロン茶はその過程を経たもので、さらに完全に酸化させたものが紅茶ということになります。
それに対して、摘み取ってすぐに加熱工程を入れて酵素を失活させ、酸化させないものが緑茶です。
我が国の緑茶の歴史は、平安時代に南宋に留学した栄西禅師が伝えて始まったということになっていますが、私は佐賀に来た中国の陶器職人が釜炒り茶を伝えたという話を興味深く思っています。この釜炒り茶は製法は簡単ですが、味には深みがありません。
これに対して、日本で一般的に行われているのは蒸す方法で、こちらのほうがより味わいが深くなります。こうした加工の改善を行ったことは、日本人の器用さと繊細さによるものだと思います。
茶道で用いる抹茶は碾茶(てんちゃ)を臼で細かな粉状にしたものです。碾茶は茶の生葉を揉むことなく熱風で乾燥させていく製法で作ります。
今日私たちがより身近に感じる煎茶や、あるいは玉露といったものは意外と新しいもので、これらの凝った茶製法が出来たのは江戸時代後半です。
この日本茶が、明治時代になってアメリカに輸出されるようになります。生糸の次に、緑茶が外貨を稼いだのです。静岡県清水港はアメリカ向けの緑茶の輸出港として栄えました。
オーストラリアで茶栽培をという計画
日本茶は戦後はしばらく低迷しましたが、昭和30(1955~)年代後半からの高度成長期には大いに需要は高まり、またヤブキタという優良な品種も登場して一気に茶業界は好況に沸きました。
しかし、この好況も15年ほど前からは、生活の変化や個食化、他の多くのドリンクの登場で下火にとなってきました。
とは言え、健康志向が高まる中、今度は緑茶はカテキンをはじめとした成分を含むものとして再度見直され、500mlペットボトル入りの各種緑茶製品の動きも見逃せないものです。また、海外向けの商品としても、日本茶にまつわる文化には他には譲らない強さを持っています。
こうしたことを背景に、オーストラリアで日本の緑茶栽培を事業化したいという会社がいくつか現われ、それぞれに取り組みを開始しています。筆者はその中の一社と関わりました。
初めてオーストラリアの土壌調査に向かったのが2000年2月です。候補地は2カ所あり、一つはシドニーから北へ100㎞ほど行った地帯、もう一つの候補地は西オーストラリア南端、パースから300㎞ほど南下したところです。
さて、筆者はこうして向かったわけですが、日本でその計画について茶業試験場に相談したところ、「全くダメだろう」ということでした。それは、以前にもお話したとおり土壌のpHの違いを根拠とした考えでした。
実際、現地でどうなったのか、次回続きをお話します。