日本の近代農業では、暗赤色土のように作業性の悪い土に対しては、土壌改良をしようと考えがちです。しかし、それは正しい選択でしょうか。日本と中国の農業を比べながら、そのことについてよく考えてみましょう。
日本の農家は土をよくしようと考える
さて、前回の続きで、土に問題があれば改良すると考える発想が、常に正しいかというお話です。
日本の場合、農民は割り当てられた田や畑を耕作するものとされ、そこを離れてどこかへ行ってしまうことは許されない時代が長く続きました。農地は選べなかったのです。だめな土地から逃げ出すことはできないので、だめな土地であればよい土地にするしかなかったのです。これは不自由なものでしたが、それゆえに、その土地をよくすることが、自分たちの生活をよくすることにつながるため、“一所懸命”に働くようになりました。
そして、戦後の農地改革では、その大事に育て上げた土地の所有者が地主ではなく、自分自身ということになりました。手を尽くして改良してきた土地が自分の所有となり、それを子・孫に継いでもらえるようになったのです。
このような経緯と制度から、日本の農家は自分の土地への愛着をたいへん強く持っています。だからこそ、その土地をよくしようという気持ちを強く抱き、そのために頭を働かせ、体とお金を使うのです。
土地所有できない国では土壌改良よりも適地適作で考える
一方、中国では土地は国家所有(都市部)か集団所有(農村や都市近郊)です。私的な土地所有はなく、日本の定期借地権のような土地使用権によって土地を利用する形です。
このような制度の国はほかにもありますが、この場合、農民は日本の農家のように土地をかわいがるような発想は持ちません。いいえ、持てないという方が正確かもしれません。自分のものではない田畑なら、それに自分のヒト・モノ・カネを費やして改良したところで、自分や子孫の利益にならないからです。
とは言え、今営農する上では、作物の収量は多くしたい。するとどう考えるかというと、その土地を変えようと考えるのではなく、その土地に最も適した作物を選び、その栽培に集中するのです。
日本と中国の、田畑に対する全く異なるアプローチをよく考えてみてください。
日本のように田畑を自分のものにできるところならば、その土地をよくするための苦労を惜しみません。日本のように大半が不良土の国でも営々と農業が行われ、土地が改良されてきたのは、このしくみによると言えるでしょう。
土壌改良は常に最善の働きかけではない
その日本人からすると、中国のしくみや農民の発想は理解しにくいものでしょう。日本の農家と話していると、それを劣っていると見る人もいます。しかし、そうでしょうか? 私は、実はそれも、土地に対する取り組み方の姿勢として間違ってはいない、合理性のあるものだと考えています。
なぜかと言えば、変えることがたいへんなものであれば、無理に変えるのではなく、その条件の中で最高を目指すことがよいと考えるからです。そして、私たちもこの考え方を選択できるということを忘れてはいけないとも思います。
中国の農民が土地改良に力を割かないのは、主に制度上の事情と言えるでしょう。しかし、土地そのものの物理的な事情として土地改良に向かない場合ということもあります。それは中国の農村でもそういうことがありますし、今回説明した日本の暗赤色土の土地についても、同じように考えることが有効です。
つまり、変えることがたいへんな相手を無理に変えることなど考えないで、その状態でいかに収量を上げるかを考えるという発想です。粘性の強い土をねじ伏せて葉ものなど他の作物を育てるのではなく、このままの土に適した根ものを選択して、その栽培に集中すればよいのです。
どこでも同じ農業をしようと考えてはいけない
この両方のアプローチがあることを押さえ、場合によって選択する発想を持てば、農業経営に幅ができます。土地を変えること、土地を変えないこと、そのどちらも絶対のものではないのです。
そして、実は戦後の日本の農業生産と農産物流通は、このことを無視してきた面があります。農業の近代化の号令のもと、それぞれの土地の土をよく理解して生かすこと、そこでこそ出来る農産物を重視すること、それらを怠ってきました。どの土地でも、そこの土をねじ伏せるようにして改造し、全国一律に同じものを生産しようという発想が優先してきました。
しかし、土が違うと作物も違う、その大事なことを改めて見直すきっかけを、この暗赤色土の存在が与えてくれていると考えています。