誰も近づかなかったススキの原=火山灰土地帯だったが、戦後になってにわかに開墾が進んだ。当初苦戦しながら、今日優良産地となったプロセスはどのようであったか。
開墾せざるを得なかった事情
さて、多年にわたって放置されてきた火山灰土地帯ですが、いよいよ人の手が入る時代がやってきます。
太平洋戦争が終わると、満州や戦地から人々が続々と引き揚げて来ました。ところが、その人たちが農村に帰っても、条件のよい田畑は誰かが利用しています。そこで、ススキの茂る原野に一縷の望みをかけて開墾していきました。
火山灰土の表層には、真っ黒で腐植もたいへん多く含む、俗に言う黒ボク土というものがあります。これは一見すると肥えた土のようで、人に期待を抱かせるものです。ところが、連載の第8回でも述べたように、黒ボク土に含まれる腐植は分解がほとんど進まず(耐久腐植)、作物の栄養源としてはあまり価値がありません。見かけ倒しのやせ地であり、長い年月にわたって人々を寄せ付けなかった不良土です。
また、多くの火山灰土地帯は、少し掘ると黄褐色の心土が出てきます。これも、そのままではチャぐらいしか育たない土です。
帰国で安堵したのも束の間、このような悪条件の土地を開墾していくしかなかった人々の戦後は、おそらく極貧を強いられながらのつらい日々であったことは容易に想像されます。
救世主、リン酸肥料の増産
そんな苦労の日々に、やがて朗報が届きます。国がこうした火山灰土地帯の改良策を打ち出し、国家支援のもと、大々的に火山灰土との闘いを開始しました。
その処方箋は、次の3項からなります。
- まず、石灰施用による酸性土壌の改良を行う。
- 堆肥などの有機物を施す。
- リン酸肥料を施用する。
ただし、このうちリン酸肥料は高額な肥料で、ここはこの作戦のネックでした。
そこへ起こったのが朝鮮戦争の特需景気、さらにその後の輸出増進政策による外貨獲得です。これによってリン鉱石を大量に輸入することが可能となりました。リン酸肥料の増産、普及が実現し、日本の火山灰土の救世主となったのです。
しかし、救世主はやがて度を越して万能視されていったようです。
その後の日本は高度成長期を迎え、太平洋沿岸の工業地帯には、あたかも重化学工業の栄光を象徴するかのように、世界有数の化学コンビナートが築かれます。
そして、肥料の営業マンは、救世主、栄光に後押しされながら、熱心にリン酸肥料を販売し続けました。悪いことに、リン酸過剰の障害は畑ではなかなか現れてきません。
そうした中、日本の火山灰土地帯でも、密かにリン酸過剰時代は始まっていたのです。私には、これは科学の敗北と見えます。経済活動の限界でもあったでしょう。
大きな問題は、火山灰土救済の3つの処方のうちリン酸成分の施用にのみ走り、あとの2つ、石灰の施用と堆肥などの有機物の投入を怠ったこと。そのような圃場がたくさんあったのです。
リン酸頼みの弊害は他にも
南九州、中国地方の大山周辺、関東一円、東北、北海道と、広域に及ぶ日本の火山灰土地帯は、現在は「優良産地」となっています。
しかし、私が実際に現地を訪ねて土壌調査を行い、生産者の方々にヒアリングもしてみると、正しい考え方で取り組まれているケースは多くありません。リン酸過剰を直視し、今一度基本に返って栽培を見直しましょうとお話することがしばしばです。
また、リン酸肥料頼み=堆肥・石灰軽視の弊害はリン酸過剰を招くだけではありません。たとえば、春先に多い強風は火山灰土地帯の軽い表土を吹き飛ばし、せっかく作った作土を失うことになります。適正な量の有機物を入れたり、そのために風の強い季節にも何らかの作物か緑肥を育てるといった対策があれば、その損失を防止することにもなるのです。