前回は「元肥の不思議」として、なぜ肥料を“先払い”できるのかに触れました。今回は、そのメカニズムについて、もう少し詳しく説明します。
なぜ土が無機物を吸着できるのか
土は植物の栄養になるものなど、周りの物質を蓄える性質があります。そのお話をもう少し詳しく説明します。
中学校の社会科で、4大文明の歴史を勉強したと思います。そのなかで、エジプト文明はナイル川の毎年の氾濫によって肥沃な土壌を得たと教わったでしょう。社会科の授業ではそういうものだということで終わっていたと思いますが、では、その氾濫で運ばれてきたものとは、どのようなものであったのか、少し考えてみましょう。
まず、肥沃になったということですから、植物の栄養になるものが含まれていたということになりますが、その栄養が上流で繁茂していた植物に由来するものであったことは想像できます。
ここで一つ確認しておきますが、通常の場合、植物は土壌中の有機物が分解して出来る無機物を吸収して生長します。したがって、上流で生育した植物が分泌したものや、枯れ朽ちた体は、土壌中でいったん分解し、多くは無機物となります。その無機物を、またその付近の植物が吸収して育っていたでしょう。
土壌中で有機物が分解するスピードは、夏の気温が高いときには速くなり、そこに育つ植物が吸収する量を上回る量の無機物が出来ます。その余った無機物はどうなるかというと、土壌が吸着するのです。
なぜ土壌が無機物を吸着できるのでしょうか。それは、土壌中の有機物(腐植)が無機物を吸着するということと、もう一つ、土壌中の粘土鉱物が無機物を吸着するということと、両方が考えられます。
ナイル川ではとくに、氾濫で運ばれてきたのは栄養豊富な粘土質の土であったそうです。さて、土壌中の有機物(腐植)については「土壌中に有機物があることは肥沃であることそのものだ」という直感的な感覚は働くでしょう。しかし粘土鉱物に栄養があるというは、ぴんと来ないかもしれません。そのメカニズムについて、少し詳しく説明しましょう。
微少な世界で+と-が引き合う
さて、前回土のコロイドという言葉を紹介しました。外に出て土を一つまみ取って来て、それをコップの水に入れてかき混ぜてみてください。泥水ができますが、しばらく静かに置いておくと、土の大きな粒から徐々に沈殿していくでしょう。ところが、なかなか澄んだ水には戻りません。いつまでも沈まないものがあって、濁りが残るでしょう。土壌中の粘土鉱物の微細な粒がコロイドとなっているのです。
このコップに陽極(+)と陰極(-)2本の電極を差し入れて、直流電圧を加える実験(電気泳動法)をすると、土のコロイドは陽極(+)に向かって動くことがわかっています。つまり、土のコロイドは負(-)の電荷を帯びているのです(帯電していると言います)。
さて、多くの植物が必要とする無機栄養は、正(+)の電荷を帯びた小さな粒なのです。これは学校では陽イオンとして習うものです。
そこで、負(-)電荷の粘土鉱物が、正(+)電荷の無機栄養を引き付けるわけです。また、腐植も負(-)電荷で、同様に無機栄養を引き付けます。そのようなわけで、粘土鉱物や腐植に、無機栄養が一時的に吸着、保持されるというわけです。
土壌にこのようなメカニズムがあるために、作物が求める量を上回る栄養が土壌中に入ったとしても、土壌はそれを蓄えるのです。植物は、後でその蓄えの中から引き出して利用することができるのです。これは、あたかも私たちがお金を銀行に普通預金として預けておき、必要な現金を引き出して使っていることを思い出させます。
なお、肥沃な土というのは色が黒みがかっていることが多いものですが、これは腐植が含まれていることと見ることができます。その腐植自体が分解して無機栄養を出すということと、同時にこの無機栄養を蓄えておく能力がより高い土でもあるということです。
一方、以上のことがわかると、砂も土壌でありながらなぜ肥えていないのかという疑問も解決されるでしょう。つまり、砂には粘土鉱物が大変少ない、腐植も少ない、すなわち無機栄養を蓄える力が弱い、ということです。
土によって無機栄養を引きつける力が違う
ところで、土のコロイドが負(-)に帯電していると説明しましたが、土壌の種類によって、この帯電の程度は異なります。それが無機栄養を蓄える力の差となり、農業ではその違いが保肥力として栽培に大きな影響を及ぼしてきます。
円卓の周りに椅子が並んでいるところを思い浮かべてみてください。椅子が多ければたくさんのお客が座ることができ、少なければわずかなお客しか座れません。
この円卓が土のコロイドで、椅子の数が帯電の程度を表します。土によってこの椅子の数に違いがあり、その多い少ないによって、土が一度に蓄えることができる無機栄養の量が決まるというわけです。椅子が多い土は、いつも作物に余裕をもって無機栄養を供給できます。逆に、椅子が少ない土は、常に供給が不安定で、不足と過剰を繰り返すことになります。
この椅子の数を塩基交換容量と呼んでいます。「塩基」とは、土壌学で考える場合は無機栄養で正(+)の電気を持ったものというような意味になります。その塩基が、土のコロイドに吸着されたり離れたり、前にくっついていたものとは別のものがくっついたりを繰り返すということで、「交換」という言葉が出てくるわけです。そして、「容量」が交換を行える能力、つまり椅子の数ということになります。
塩基交換容量は英語ではcation-exchange-capacityと書きます(cationは陽イオンのことです)。そこで、これを略してCECと表現します。
伝承と勘は大切だが限界がある
さて、以上のことは、土の化学的性質の中では最も重要なことの一つです。このことを理解し、CECなどという用語を知ってしまうと、野菜やコメの産地のCECがどうなっているか、知りたくなるでしょう。
ところが、日本の農家でこのメカニズムを知っている人、CECというものに着目している人は、少ないのというのが実情です。なぜなら、CECは圃場を眺めても目に見えません。その上、CECというものを知らなくても、彼らは経験の中で土の“保肥力”というものを見極めているのです。
ならば、このことを私たちが知っても意味がないのでしょうか。私はそうではないと思います。
勘と経験は確かに農業の根幹ではありますが、勘と経験には限界もあります。
人類は、目に見えるものをよく観察して判断するということの中で、多くの技術を編み出しました。農業もそうです。
その感覚と方法はすごいことと言えますが、間違いも多くあります。その間違いを正すのが、近代学問であり、土壌学もその一つです。直接目に見えないものもあると知り、たとえ見えなくともその存在や動きを実験や観察で確かめ、その知見を応用することで、人類は違う段階の進歩を始めたのです。
長い間、農家はその匠の技を親から子へと伝えてきました。「この畑はこんな癖がある」とかいう具合に、あいまいな言葉で伝え、実務の中で技を身に付けるように仕向けてきました。これはこれで、立派な伝承です。
しかし、その方法だけでは限界があります。技術的な限界がある一方、昔よりも同じ場所で同じものをよりたくさん、より高回転で、より機械化もしながらと、土と人間に対する要求は高めてしまっている。もはや、土の能力と人の観察力の限界を越えているのが、現代日本の農業の現場であり、その結果が、決して高くない生産性と言えます。