作物として育てられる植物のほとんどは、土に根を張って育ちます。ですから、農作物という食材と土壌は密接な関係にあると見ていいでしょう。そこで、現代の農作物と土壌の関係を概観したいと思います。
今回の案内役として、近代農業に大きな足跡を残した二人の偉人に登場してもらいましょう。
一人は、ドイツの化学者リービッヒ(Freiherr Justus von Liebig/1803~1873)です。リービッヒは植物の生長には窒素、リン酸、カリウムが影響していることを見抜き、化学肥料を作るなどを行ったことから、「農芸化学の父」とも言われます。
もう一人は宮沢賢治(1896~1933)です。詩人、童話作家として語られることが多い人ですが、彼は農民への巡回指導を行った人であり、農民に直接肥料設計書を書いて渡すなど、先進的な取り組みを行いました。
現代のある日、ある農村で農家を対象とした勉強会が開催されました。この種の勉強会の常として、終了後には懇親会が開かれます。そのパーティ会場に、リービッヒと宮沢賢治の亡霊が現れます。昼間の講師が肥料設計の話をした際、この二人の名前を挙げて説明したため、「何を話しているんだ?」と気になって、天国から様子を見に来たのでしょう(もちろん架空の話です)。
以下は、パーティ会場でばったり出くわした二人の会話です。
無機栄養説を唱えたリービッヒ
宮沢 ああ、あなたはリービッヒさんですね。こんにちは。
リービッヒ ほう。君は亡くなる前日まで農家の施肥設計の指導をなさっていた宮沢君だね。こんにちは。
宮沢 今日はどうなさいましたか。
リービッヒ インドや中国を通って、日本の上空を散歩していたところだったんだが、ここで盛んに私の名前を言っている人がいるので、何だろうと下りて来てみたわけだよ。
宮沢 なるほど。農家が集まって、土壌と肥料の勉強をしているようですね。講師が「無機栄養説」の話をするときに、あなたの功績に触れたのです。実は私も、私がかつて作った石灰肥料の広告の話をしている人がいるので、ここに立ち寄ってみたところです。
リービッヒ そうだったのか。私は有機化学を確立して近代科学に貢献したつもりだ。大学の中に学生向けの化学実験室を作ったり、教授と複数の学生で構成する研究室という場を創案したりもした。リービッヒ冷却器という実験器具の名前で私を知っているという学生も多いようだ。
しかし、私が特に力を注いだのは、無機肥料によって植物を生育することができることを説いたことだ。
宮沢 存じております。昔は、植物の栄養は家畜の糞尿や落ち葉など、いわゆる有機肥料によってのみ供給されると信じられていたのですね。それに対してあなたは、窒素、リン、カリウム、カルシウム、マグネシウム、マンガン、鉄、銅、亜鉛によって生育ができるという、無機栄養説を唱えられました。
リービッヒ ありがとう。よくご存知のようだ。
農村を巡回指導した宮沢賢治
宮沢 私は岩手県にあった盛岡高等農林学校で土壌学を勉強いたしました。卒業してからは農民に土壌肥料学を説き、農民の田畑を回って歩いて、それぞれの圃場の肥料設計書を書き、最適な肥料の与え方や土壌改良を指導したのです。
リービッヒ なるほど。盛岡高農で私の無機栄養説を勉強されたわけだね。農民は、無機栄養説を理解したのかな。
宮沢 それです。多くの農民とやりとりしてみると、彼らはやはり有機物を土に与えることで、作物はしっかり育つと言いますし、私も現場を歩いた経験から、やはりそのようだと感じています。
ここで二人の間に、ちょっと気詰まりな沈黙が起こります。その二人の前には、さまざまな農産物で作った料理が並んでいて、勉強会の参加者たちが「おいしそうなのはどれだ?」と眺めては、皿に取っていきます。それを眺めながら、リービッヒは思案顔で宮沢に問いかけます。
リービッヒ ところで、ドイツで土壌分析が始まったきっかけを知っているかね?
宮沢 さて。どのようでしょうか。
宮沢 作物が多く収穫できる土地にも、あまり収穫できない土地にも、同じ税を課すのは不合理だということで、適正な課税額を決めるために分析を始めたのだよ。
宮沢 なるほど。徴税のためだったのですか。
リービッヒ 一方、生産者たちは何とかうまく栽培したい、うまくたくさん作りたいという動機から、植物学や土壌肥料学の勉強を始めたり、土壌分析を行うようになったんだ。
宮沢 そうですね。盛岡高農の創立の狙いも、日本の食糧増産に寄与することでした。
リービッヒ しかし、宮沢君。君ならわかると思うのだが、これからの農業は、作る人の事情ではなくて食べる人の健康を第一に考えて、またずっと長く続けられることを考えなくてはいけないだろう。
宮沢 その通りですね。「健康」と「持続可能性」という言葉は、ここに来ている人たちも好んで使う言葉のようです。
考えてみますに、私が巡回指導していた頃は、社会にそうしたことから発想する余裕がなかったのです。それは、つい最近までそうだったようです。
とにかく、多収や耐病のための技術が、第一に必要とされたのです。そのための研究、開発、普及のおかげで、最近は「サムサノナツハオロオロアルキ」ということも、過去の話になりかけているようです。