海上輸送でだけでなく、陸上輸送でも定温を保つべく、ワインの「トータル・リーファー・システム」が始動した。ところが、その実現能力がフランスにはなかった。一方、日本ではクール宅急便のサービスが始まった。
箱だけだったリーファー・コンテナ
陸上での輸送と保管の際にも温度への配慮が必要なことが確認されたことを受け、私の“海上輸送時の改善提案”は“生産者からショップまでの輸送改善提案”へと拡大し、「トータル・リーファー・システム」の名称で再提案することになった。
ところが、それから1年としない1988年のうちに、またしても愕然とするような情報が入ってきた。
まず、リーファー・コンテナをトレーラーで牽引しようとする場合、フランス国内には冷却装置稼動用の大型バッテリー搭載車がないということがわかった。さらに、冷却装置稼動用のディーゼル発電機やその発電機を搭載できるコンテナ牽引用台車もほとんど手当てできていなかった。
したがって、フランス国内では現実には電源なしで運ばれていたことが判明したのだ。これではさすがのリーファー・コンテナも、単なる“断熱コンテナ”に過ぎない。
その後、ダンザス社という運送業者が比較的対応能力があるとの情報が入った。しかし、電源を確保し、冷凍・冷蔵機能を十分に発揮したリーファー・コンテナがヨーロッパを駆け巡るには、さらに時間を要した。いや、今日なお満足のいく状態ではないと思われるのだ。
クール宅急便の登場
他方、当時の日本国内の運送業界も大変革期を迎えていた。
1975年ころだったであろうか。それまでコカ・コーラの配送代行で急成長していたヤマト運輸が、突然契約を打ち切られた。われわれ酒販店に大量の瓶入りコカ・コーラを届けてくれていた顔なじみのヤマト運輸のスタッフたちが、泣きながら別れの挨拶に来てくれた日のことが忘れられない。
それでも若く風采のよい大卒のスタッフたちはコカ・コーラ側に引き抜かれ、引き続き缶入りコーラとペット・ボトル・コーラを届け続けてくれた。だが、高卒で中年のベテラン・スタッフたちは引き抜きの対象とはならなっかった。倒産が囁かれていた会社と心中する覚悟を決めたスタッフ、家族を想い他社へ転職したスタッフ、何れも厳しい将来に身構えていたのだと思う。
しかし1976年、クロネコヤマトの宅急便事業が関東地方で始まった。そして10年後の1986年ころには様相は一変した。かつての同僚たちが自販機に缶コーラを詰めて廻る仕事を続けているのを尻目に、私が親しくしていたヤマト運輸の高卒ベテラン・スタッフの一人は新人教育スタッフとなり、未払い・遅払い給与の代償として取得した自社株の配当や無償増資で高収入となり、毎年ご夫婦で海外旅行を楽しまれていた。
そして1988年、「+5℃」「-5℃」「-15℃」の3温度設定でクール宅急便が全国スタートしたのである。
ワインの貯蔵・輸送の最適温度は15℃と信じる私としては、そのときもちろん、件の元ベテラン・スタッフの方にお願いして、+15℃の温度設定も追加して欲しいとお願いした。だが採用されなかったようである。
返品を運ぶしくみがない
このころ、日本国内のリーファー輸送も暗礁に乗り上げていた。
当初、日本リカー専用(チャーター)空調トラックを稼動させた東西運輸は、理想的空調ワイン倉庫建設を目指した寺田倉庫との連携プレイで、首都圏で快進撃を続けた。しかしその後、今でも在京ワイン輸入業者と、首都圏のホテル、レストラン、ショップ(デパート、スーパー、ワインショップを含む)等との業者間取引の範疇に留まっており、全国ネットの構築や宅配業務への進出には遠く及ばない状況だ。東西運輸の努力は不定期ではあるが、関西、稀には北九州までの業者間配送までは実現しているのだが、在京ワイン輸入業各社は大きな問題を引きずって今日に至っている。
その大きな問題とは、納入先から返品が生じた場合、東京・横浜の輸入元倉庫への返品は普通便もしくはクール宅急便以外に手立てがないということだ。出荷時には健全だったワインも、返品時には満身創痍となって再販不能の不良在庫を激増させ、ワイン輸入業各社の経営を圧迫してしまっているのだ。