ワインのリーファー輸送を業界に提案した大久保順朗氏が、リーファー輸送が必要と考えるに至ったワイン物流の問題の本質を語る。今回は、広がり始めた出会い、輸入業者のネットワークの中で、良質なフランスワインも現れた話をお送りする。
食品メーカーは進んでいた
「ワイン地下貯蔵の店」の看板は、さらに二つの幸運を呼び込んでくれた。
2社のドイツ・ワインに出会った幸運から数カ月後、フランス・ワインでキャップ・シールの固着していないものを持ち込んだ営業マンが現れた。ミナト商会(東京都港区)だった。
ワインはブルゴーニュのシャンソン社のもので、輸入会社は中島董商店(東京都渋谷区)であった。同社は当時社員数三十数名の小さな会社とのことであったが、キユーピー・アヲハタグループの発祥母体で、ミナト商会も子会社であった。
そのオーナーのお気に入りワインをブルゴーニュから取り寄せるに当たり、輸入販売も開始したという。酒類販売には日の浅いこの企業は、しかし品質管理に長けた食品製造業者である。
後々に聞いてわかったことだが、私が提唱したワインのリーファー輸送実現の以前から、キユーピー・アヲハタグループの食品大手2社ではマヨネーズやドレッシングの原料素材であるワインビネガーやオリーブオイルを船内指定積み付けやリーファー輸送で実験輸入し、採用していたのだった。ミナト商会のシャンソン社のワインは船内指定積み付けで輸入されていたのだ。
シャンソン社「ヴァン・ド・ターブル」の赤・白はすぐに売れ出した。やがて、ブルゴーニュA.C.規格の「キューヴェ・アレクシィ・シャンソン」も売れ出した。
ミナト商会の営業マンは、「最近都内の業界人がワインの勉強会を始めましたよ。大久保さんも参加させてもらったら?」と、耳寄りな情報も寄せてくれた。通称「六人会」と呼ばれた勉強会で、毎月一度日曜日に開催され、会場は常に東京・六本木の「ミスター・スタンプス・ワインガーデン」であった。
もちろん参加を望み、営業マン氏に連絡の労を取ってもらったのだが、定員オーバーで参加はかなわなかった。
六人会と「マキシム・ド・パリ」の品
しかし約半年後、六人会世話役の安井康一氏から「ゲストとして参加してみない?」とのお誘いがあり、喜び勇んでゲスト参加させていただいた。
会は、ボルドーのオー・メドック産グラン・クリュ1970年産を毎回6種類比較テイスティングするという趣向であった。オー・メドック産グラン・クリュ格付けワインをすべてテイスティングし、「1855年格付け」およびデイビッド・ペッパーコーンによる「格付け変更案」等を検証することを目的としているということだった。
ワイン調達は、基本的に「マキシム・ド・パリ」(東京・銀座)が自社輸入した在庫を分けてもらっていた。同一管理下にあったワインを比較することで、蔵のキャラクターが明確に浮き上がるであろう効果を期待したのだ。
また、何回にも分かれるテイスティングのブレを防ぐために、「シャトー・ポンテ・カネ」(Château Pontet-Canet)1970を毎回、基軸ワインとして組み込むという姿勢も、周到で素晴らしかった。
テイスティングの最初の1時間は参加者間での会話も一切禁止し、互いの影響を受けずに独自に6種類の評価・検証を行う。その後に共通評価基準の模索を図るという、優れた内容の勉強会であった。
初めて目にする「マキシム・ド・パリ」の自社輸入在庫は、明らかに口漏れが少ないとわかるものだった。ボトルに触らせてもらい、液面高を確認し、少し力を加えてキャップ・シールを回そうと試みる。回らないもの、プツッと小さな音がしてキャップ・シールが回転するものもあったが、それまでに私が味わったボルドー産赤ワインとは比較にならないほどに軽微なダメージのワインであった。
そして幸運にも、当日の参加メンバーの方々のご好意で、以後毎回の参加を認めていただけたのである。
安井康一氏はワイン輸入業者日本リカー(東京都港区)の社員であったのだが、より広くワインにかかわるべく自らの得意先新玉川屋酒店へ転出入社し、町場のレストランを対象に業務用卸を急拡大させていた人物である。
アーブル港積み出しのフランス・ワイン
六人会のメンバーに加えていただいて半年も過ぎたころだっただろうか、安井氏から電話をいただいた。「ウチ(新玉川屋酒店社長)の親父さんとアンタ、親戚なんだって? 知ってる?」との問いだった。
傍らの父親に聞いてみた。「新玉川屋酒店か! そうだよ、お前が小さいころ、何度も連れて行ったのを覚えていないのか?」との返事であった。
思い出してみると、父親はまだ軽トラックが普及する以前のころ、バイクを改造して大人が寝転べるほど大きな荷台を取り付けたサイドカーで酒類を運んでいた(サイドカーの操作は難しい。父親は軍隊時代に偵察・伝令役のサイドカー運転手だった)。
そのころの「二子玉川」駅前は遊園地もあり、多摩川堤との間には川魚料理の船宿が並び、桜の季節や夏の水遊びの季節には行楽客でごった返していたものだ。それで、問屋が休みの日に新玉川屋酒店に大口の注文が舞い込むと、私の父親がサイドカーを駆って二子玉川へ応援に出向いていたらしい。安井氏とも不思議な縁を感じた出来事だった(ワインの神様がいるのだろうか?)。
また六人会には2人の輸入業者スタッフがいた。一人は日本オリビエの鈴木雄介氏である。六人会初参加から二週間ほどして、鈴木氏の部下小山氏がワインのサンプルを携えて来店した。それはなんと、私が「神頼みをする思い」で探していたルアーブル港積み出しの船内指定積み付けのワインであった。
日本オリビエの値頃のボルドー産プティ・シャトー・ワイン数種が売れ始め、やがてブルゴーニュの「アントナン・ロデ」が売れ始めた。
もう一人は、大手酒問屋日本酒類販売の本社スタッフ三好寔氏であり、後に同社を転出し、海運の上野グループが立ち上げたワイン輸入会社ラック・コーポレーション(現在は宝グループ)の初代責任者として手腕を発揮した人物である。
日本酒類販売多摩支店は我が店のメインの問屋である。三好氏の第一声は「おめえかよ! 多摩支店が『うるさい酒屋がいる!』と言っていた張本人は!」と言うものだった。「つい最近、欠品してしまったデローのワインを3種類ばかり航空便で取り寄せたから仕入れてみな! うまいぞ!」と教えてくれた。「デロー・メドック」と「デロー・サンテミリオン」が、しばらくの間好調に動いた。
出水商事の取り組み
もうひとつの幸運は、出水商事の営業マンの来訪だった。ネクタイ&スーツ姿の営業マンの多いワイン業界に、Tシャツ&Gパン姿で現れた彼は、地下室をひと目見て「とにかくウチの社長に会いに来て!」と言う。
東京・板橋の同社に出向くと、山坂社長が出迎えてくれた。マンション一階のオフィスは空席ばかり。地下貯蔵庫に案内されると、一部の壁は赤土(関東ローム層)がむき出しである。湿度調整の努力がうかがわれた。
山坂社長は、「社員たちは今日も未だ採算の取れていないワインビジネスを支えるために、バーやキャバレーにビールやウイスキーを汗まみれで売り歩いてくれています。会社設立以前は皆で果物の露天販売までして資金集めをしてくれました。彼らに報いるためには、絶対に失敗は許されないのです」と熱く語られた。
同社の熱意は半端ではなかった。現在のワイン業界の“造り手紹介”のスタイルは、出水商事の模倣と言ってもいいだろう。輸入法はシュミットを手本としているとのことだった。輸入年月日の表示はその好例であったし、バック・ラベルの記載事項や紙質まで似ていた。しかも、口漏れの状態や発生率までもシュミットに酷似していた。
シャブリ地区のモロー社「ヴァン・ド・ターブル」の赤・白、ボジョレー地区のデュブッフ社「キューヴェ・ド・ラミティエ」の赤・白はすぐに売れ始めた。やがてそれら各社の上級品も、ゆっくりとではあるが売れ始めた。その後も、日本ではなじみの薄い産地のワインを、懇切丁寧な紹介文を添えて次々に提供してくれた。
※A.C.規格:Appellation Contrôlée。原産地呼称統制の認証を受けたもの。「Appellation chablis Contrôlée」のように表示がされる。AOC。
※デイビッド・ペッパーコーン:名門ネゴシアン(ワイン卸売業者)の家に生まれ、マスター・オブ・ワインの一人。ワイン専門誌「デキャンター・マガジン」の専任寄稿者。