初めて見たリーファー・コンテナの中身の話

「シャトー・ムートン・ロットシールト」(写真は1970年)
「シャトー・ムートン・ロットシールト」(写真は1970年)
「シャトー・ムートン・ロートシルト」(写真は1970年)
「シャトー・ムートン・ロートシルト」(写真は1970年)

ワインのリーファー輸送を業界に提案した大久保順朗氏が、リーファー輸送が必要と考えるに至ったワイン物流の問題の本質を語る。今回は、相模原にあった「ゲイマー・ワイン」オーナーの故マーセル・ゲイマー氏の思い出と、発見の話をお送りする。

ゲイマー氏に教わったいくつかの秘密

 またこのころ、お客様のご要望を受けて、相模原にあった国産ワイナリー「ゲイマー・ワイン」の取り扱いを始めた。オーナーはユダヤ系フランス人マーセル・ゲイマー氏であった。

 メルシャンの直送便の経験から通常の運送会社の輸送ではワインが変質してしまうことを学んだ私は、ゲイマー農場までワインを引き取りに出向くことにした。取引初日、注文したワインは事前にそろえられていた。

 しかし二度目の仕入れに出向くと、注文品はまだラベルが貼られていなかった。ゲイマー氏は「ラベル貼りを手伝って!」と言う。好奇心に溢れていた私は、二つ返事で手伝った。ところが、次に仕入れに行くと、今度は「コルク打ちとキャップ・シール装着を手伝ってくれ!」と言われ、その次に訪れた時は、「ゲイマー・ブランディの調合を手伝え!」と言われた。

「ゲイマー・ブランディ」は、フランスから輸入して樽熟成を始めたばかりのホワイト・ブランディに、「カミュ・ナポレオン」をメジャー・スプーンに数杯添加するという代物だった。

「ゲイマーさん、これイカサマじゃない! ひどくない?」と文句を言うと、「大久保、日本のメーカーと比べれば良心的過ぎるくらいだよ。彼らはホワイト・ブランディなんて使っていないよ」と教えてくれた。この時、日本には酒の「造り」の法律がないに等しいことを教えていただいた。

 それ以降も、ゲイマー氏は私に刈払機の操作を教えて草刈りを手伝わせたりもした。また、自身が関東ローム層を手掘りして作り上げた地下貯蔵庫を案内して、「毎年、『シャトー・ムートン・ロートシルト』を樽で数樽取り寄せ、一升瓶に詰め替えて“王冠”で栓をして、この地下貯蔵庫に保存している」ことなどを教えてくれた。そして「いつかいっしょに味見しよう」と言ってくれた。

 空き樽は「ゲイマー・ワイン」の熟成に使い、古くなり過ぎたものは「ゲイマー・ブランディ」の熟成に使っていることなども教えてくれた。

醸造場でリーファー・コンテナを初めて目撃

 極め付けは、2~3年目の秋のことだ。「ワインの仕込みを手伝ってくれ」と電話をいただいた。本で読んだ「ブドウ摘み・撰果・破砕・仕込み作業」が実体験できるのだと胸を躍らせ、指定された日の早朝に腕まくりして出向いた。

 現地には、普段見かけたことのない若いスタッフが数名と、普段は事務と売店を仕切っていたMさんというおばちゃんがいた。

「ゲイマーさん、背負いかごはどこ? 早く畑へ行こうよ!」と言うと、「ここの畑のブドウはウイルスにやられて使い物にならないんだよ」と言う。「えっ? じゃどうするの?」と困惑して聞くと、「これから冷凍ブドウがフランスから到着するんだ」とゲイマー氏。小一時間後、本当に冷凍ブドウが到着した。

 それは私がリーファー・コンテナと言うものを初めて目にした時でもあった。40ftタイプだった。醸造場のコンクリートの床に接するように停められたトレーラー上のコンテナの扉が開かれ、段ボール箱の群れが床に崩れ落ちた。すべての箱がコンテナから降ろされると、トレーラーははどこかへ去っていった。

 全員で段ボール箱を開け、中のビニール袋を切り裂き、半破砕状態の冷凍ブドウ果を取り出し、床下にある醗酵槽へと蹴り込む作業を続けた。これが「仕込み」のすべてであった。後は数日の内に解凍され、液温上昇すれば自然に醗酵段階へ突入するということだった。

 その袋出し作業の最中に、明らかにブドウではない冷凍果実が2種類見つかった。カシスとフランボワーズ(ラズベリー)と見当がついた。発見したものを除けてゲイマー氏に伝えると、「あぁ! それはジャムを作ろうと思って頼んでおいたのだよ。よく見つけたね!」と言う。

 この二つの果実も、今ではケーキのトッピングやアイスクリームやシャーベットの材料として日常的に普及しているが、1973~1975年頃の当時、日本では知名度のない異国の果実であった。これらをなぜ私が見分けられたのか、不思議に思われるだろうから一応申し上げておく。当時読んでいたワイン解説の翻訳本には、「カシスの香り」「フランボワーズの香り」が頻繁に登場するのである。それで、この聞き慣れない果実の写真や実物を探し回ったのである。

 結局実物は発見できなかった。当時のケーキのトッピングに使われていたのは、何れも形状を残さないジャム様のものであった。それらのリキュールも、茶色く変質したものばかりであった。実物の大きさもわからぬままに、写真で見た姿だけは頭に叩き込んでいたのだ。

 日本でこれらの果実がケーキや氷菓の材料として発展したのは、後述する出水商事(現イズミトレーディング)が、輸入したリキュールとポリタンク入りのノンアルコール果汁の飛躍的な健康度での入荷に負う所が大きかったと思われる。これらは「船内指定積み付け」で輸送されたものだった。

 以後、製菓業界の要求はワイン業界のリーファー輸送待望を遥かに凌駕して、このリキュールとノンアルコール果汁のリーファー輸送が激増し、冷凍果や生果の輸入、さらに航空便輸送恒常化まで遂げたのである。

 港湾部冷蔵倉庫業者にとって喜ばしい預かり商品とは、入出庫の激しい商品である。倉庫業者にとってワインの存在価値はさらに低下したと言っていい。

 もちろん、「ゲイマー・ブランディの調合」以来、うぶではなくなっていた私は、醸造場内に出現した「カシス」と「フランボワーズ」を前にして、心の中で「ハハーン、なるほどね! このイカサマ親父!」と得心していたことは言うまでもない。

消えたムートン・ロートシルト

 一方、当時の私は“王冠の栓”の話を理解できなかった。内心「このじいさまはフランス人なのに変なことを言うなあ。ボケでも始まってるのか? そう言えば人使いは荒いし、物忘れもひどいなあ……」などと思っていた。ゲイマー氏の優しい真意を理解できたのは10年以上後のことだった。これについては回を改めてお話する。

 ところでゲイマー氏は、当時フランス・ワインの輸入会社として有名だったバークレー商会およびジンマーマン商会の二社の共通オーナーでもあった。二つの組織を競わせて業績向上を図るという“ユダヤ商法”を実践していた。

「仕込み」の手伝いからしばらくして、ゲイマー氏は刈払機でけがをして入院してしまった。そしてそのまま帰らぬ人になってしまった。

 その後しばらくは、事務のMさんが後継者が決まるまで運営していたが、ゲイマー氏方のフランス人の甥に後継の意思はなかった。結局、ゲイマー夫人康子さん方の日本人の甥が相続したものの、事業継続の意思はないということで、ワインの輸入会社2社は社員に任せ、ワイナリーは閉鎖されてしまった。

 それから15年以上たったある日、高校の同窓会に出席した時のことだ。同級生の一人の山之内氏が、「おまえ、ワイン業界では少し有名らしいな」と話しかけてきた。「オレもワイン輸入会社を2つばかり叔母から相続したんだが、社員たちが自分たちに売って欲しいというので安く譲ってやったんだよ」と言う。

 絶句してしまった。「まさかその輸入会社って、バークレー商会とジンマーマン商会のことか? 康子さんの甥ってお前のことだったのか!」そうとわかれば、聞かずにいられないのはあれだ。

「相模原の農場の方はどうした? あそこの地下貯蔵庫には一升瓶に詰めた『シャトー・ムートン・ロートシルト』が千数百本は眠っていたんだよ。知ってるか?」

「マーセル叔父と親しかったのか? 地下貯蔵庫のことなんか聞いたことないぜ。何年か前に宅地にして処分してしまったよ」

 ため息をつきながら、「ゲイマーさんは、おまえにはあまり期待していなかったと思うよ。それより建築家のフランスの甥っ子がワイン・ビジネスに全く興味がないことを残念がっていたよ」と、しばし思い出話を交わした。

 また、“勝沼を愛した浅井さん”の弟子を自認する「ルバイヤート」丸藤葡萄酒工業の大村春夫氏が、ゲイマー農場で“仕込み”を手伝ったときの「普段見かけたことのない若いスタッフ」の一人であった。専門紙の取材同行を頼まれて訪ねたとき、談笑する中で判明した。

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About 大久保順朗 82 Articles
酒類品質管理アドバイザー おおくぼ・よりあき 1949年生まれ。22歳で家業の菊屋大久保酒店(東京都小金井市)を継ぎ、ワインに特化した経営に舵を切る。「酒販ニュース」(醸造産業新聞社)に寄稿した「酒屋生かさぬように殺さぬように」で注目を浴びる。また、ワインの品質劣化の多くが物流段階で発生していることに気付き、その改善の第一歩として同紙上でワインのリーファー輸送の提案を行った。その後も、輸送、保管、テイスティングなどについても革新的な提案を続けている。