規則正しい余生を狂わせる食

351 「敵」から

映画「敵」について、物語を動かすトリガーとなる元大学教授の渡辺儀助(長塚)の食事について取り上げていく。

 本作は、「時をかける少女」(1967)、「七瀬ふたたび」(1975)をはじめ数々のSF作品で知られる作家・筒井康隆が1998年に発表した老人小説が原作。「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八が脚本と監督を務めた。長塚京三演じる元大学教授の日常と空想を、モノクロームのシャープな映像主体で描いた手法が評価され、第37回東京国際映画祭で最高賞の東京グランプリ、最優秀監督賞(吉田大八)、最優秀男優賞(長塚京三)の三冠を受賞した。東京国際映画祭で日本映画がグランプリを受賞するのは第1回の「台風クラブ」(1985、相米慎二監督)、第18回の「雪に願うこと」(2005、公開は2006、根岸吉太郎監督)に続く3度目となる。

※注意!! 以下はネタバレを含んでいます。

規則正しさに潜む危うさ

 77歳の儀助は、フランス近代演劇史を専門とする元大学教授。妻の信子(黒沢あすか)を亡くして20年、大学を退職してから10年、祖父の代から続く都心の日本家屋で暮らしている。毎月の支出は年金と講演や執筆で得られるわずかな収入を上回り、その差額となるマイナスの金額で預貯金の総額を割った数字が彼が勘定する余命。その残高がゼロになるXデー(死ぬ時)に向けて、儀助は規則正しい余生を送っている。

 儀助の規則正しさは食生活にも表れている。朝食は丁寧に米を洗って研ぎ、炊飯器にセット。鮭の切り身を電気コンロの上に網をのせ、じっくりと焼く。ご飯はお椀に軽く1杯。最後に少し余ったご飯に塩昆布をのせ、薬缶に作り置きしておいた杜仲茶を注いでお茶漬けにする。

 別の日のおかずは、友人でグラフィック・デザイナーの湯島定一(松尾貴史)からもらった佐賀みやげの手造りハムを薄く切った2枚に、卵を一つ落としたハムエッグ。味噌汁は作らず、食後に自ら豆を挽いたコーヒーを飲む。

儀助の好物の一つ、韓国冷麺。トッピングした辛いキムチについ箸が進むが……。
儀助の好物の一つ、韓国冷麺。トッピングした辛いキムチについ箸が進むが……。

 昼食は麺類が多い。最も頻度が多いのは蕎麦。中元歳暮で送られてきた乾麺をきっちりと時間を量って茹で、ざるに盛った蕎麦の上にはさみで短冊に刻んだ海苔を散らす。蕎麦つゆには煎って摺ったごまと細かく刻んだねぎを入れ、練りわさびを溶く。

 ある夜の夕食は焼鳥。牛乳に浸して血抜きをしたレバーと、ひと口大に切った鶏肉をねぎまにし、卓上の電気コンロの上に網をのせて焼きながら晩酌する。酒は焼酎のオンザロック。グラスの底にきゅうりの一片を落として味わう。

 それぞれは単純な仕事だが、決して手を抜かない儀助の作る料理は見た目にも美しく映る。その絵作りに貢献しているのが、「かもめ食堂」(2006、本連載第22回参照)や「南極料理人」(2009、本連載第38回参照)など、数多くの作品に携わったフードスタイリストの飯島奈美である。

“来るべき日”に向かって淡々と過ぎて行く日常。そんな折、アクシデントが起こる。韓国冷麺にトッピングした辛いキムチに箸が進み過ぎ、腹を壊して病院の世話になることに。以降の儀助の現実には、タイトルが示すものがコンピューターウイルスのように、空想の世界が浸食していく。

平常心を乱す3人の女

 儀助は、多くの友人たちとは疎遠になったが、湯島や元教え子で演劇小道具の会社を経営する椛島光則(松尾諭)ら、わずかな人たちとの付き合いは残っている。その一人が元教え子の女性誌編集者の鷹司靖子(瀧内公美)。儀助が約束を忘れてランニングシャツ姿で昼食の蕎麦を食べているところに、フランス演劇の資料を見せてもらうために現れる。靖子が駅前のスーパーで買ってきたパスタを茹でて一緒に食べる様子から、儀助が靖子を憎からず思っていることがわかる。

 人間ドック入りする湯島と行ったバー「夜間飛行」で、儀助はバーのオーナーの姪でフランス文学科の大学生、菅井歩美(河合優実)と出会う。最初に読んだフランス文学は「地下鉄のザジ」という歩美。著者名のレーモン・クノーを、映画化した監督のルイ・マルと間違えて覚えているところから、あまり優秀な学生ではなく、後にトラブルを起こすことを予感させる。

 ラシーヌの戯曲「フェードル」が好きという歩美と意気投合する儀助。プルーストの「失われた時を求めて」に出てくる「ベアルネーズソースをかけた仔羊のもも肉」が食べたいと聞き、ネットで調べて食材を取り寄せ、実際に作ることまでする。しかし食卓に誘ったのは、歩美ではなく靖子。この辺りから現実と空想の境界が曖昧になってくる。

 極めつけは亡くなったはずの妻、信子の出現。鶏の水炊きを儀助と靖子が準備していたところに、儀助の連載を打ち切った雑誌編集者の犬丸健悟(カトウシンスケ)と時間差で現れ、4人で囲む食卓はとんでもない事態に発展する。

聖人君子の内面

 考えてみれば、預貯金が尽きる日から逆算して余生を見積もるなど、儀助は相当な変わり者である。納屋から昔買った双眼鏡が出てきたときなどは、「裏窓」(1954、アルフレッド・ヒッチコック監督)のジェームス・スチュワートのように、双眼鏡で近所をのぞいていた経験を椛島に告白して驚かせたりもしている。

 一見真面目に見えるが、内面に別世界を抱えているアカデミシャンの老人を描いた作品としては、「野いちご」(1957、イングマル・ベルイマン監督)を想起させる。老人映画の新たなマスターピースの誕生である。


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本連載第22回
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本連載第38回
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【敵】

公式サイト
https://happinet-phantom.com/teki/
作品基本データ
製作国:日本
製作年:2023年
公開年月日:2025年1月17日
上映時間:108分
製作会社:「敵」製作委員会(企画・製作:ギークピクピュアズ/制作プロダクション:ギークサイト)
配給:ハピネットファントム・スタジオ=ギークピクチュアズ
カラー/サイズ:モノクロ/アメリカンビスタ(1:1.85)
スタッフ
監督・脚本:吉田大八
原作:筒井康隆
企画・プロデュース:小澤祐治
プロデューサー:江守徹
制作プロデューサー:石塚正悟
撮影:四宮秀俊
照明:秋山恵二郎
録音:伊豆田廉明
美術:富田麻友美
装飾:羽場しおり
音楽:千葉広樹
音楽プロデューサー:濱野睦美
サウンドデザイン:浅梨なおこ
編集:曽根俊一
衣裳:宮本茉莉
ヘアメイク:酒井夢月
キャスティング:田端利江
アシスタントプロデューサー:坂田航
助監督:松尾崇
VFXスーパーバイザー:白石哲也
ガンエフェクト:納富貴久男
アクション:小原剛
フードスタイリスト:飯島奈美
ロケーションコーディネーター:鈴木和晶
キャスト
渡辺儀助:長塚京三
鷹司靖子:瀧内公美
渡辺信子:黒沢あすか
菅井歩美:河合優実
椛島光則:松尾諭
湯島定一:松尾貴史
渡辺槙男:中島歩
犬丸健悟:カトウシンスケ

(参考文献:KINENOTE)

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。