「あん」のどら焼きと餡作り

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桜が満開の頃、徳江は「どら春」にやって来た
桜が満開の頃、徳江は「どら春」にやって来た

本年度の第68回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門でオープニング上映されたことでも話題となった「あん」(現在公開中)を取り上げる。

「あん」は、ドリアン助川の同名の小説(ポプラ社刊)を原作に、「萌の朱雀」(1997)、「沙羅双樹」(2003)、「殯の森」(2007)、「2つ目の窓」(2014)等で知られる河瀨直美監督が、樹木希林を主演に撮った作品である。タイトルの「あん」は主人公の徳江(樹木)が作るどら焼きの餡(あん)を示している。

甘党でないどら焼き屋

桜が満開の頃、徳江は「どら春」にやって来た
桜が満開の頃、徳江は「どら春」にやって来た

 東京郊外の桜通り沿いにあるどら焼き屋「どら春」が舞台である。店長の千太郎(永瀬正敏)は、若い頃に酒絡みで暴力事件を起こして服役した過去があり、店の先代のオーナーに示談金を肩代わりしてもらったことから、その借金を返すためにこの店で働いていた。

 毎朝9時に来てどら焼きの皮を焼き、11時に店を開ける。餡は一斗缶に入った業務用の既成品をそのまま使う。店はつぶれはしないが、流行りもしない。常連はワカナ(内田伽羅)をはじめとする学校帰りの女子中高生くらい。そんな単調な毎日を過ごしていたある日、桜が満開の頃にそのお婆さんはやって来た。

 吉井徳江と名乗るお婆さんは、店のアルバイト募集の貼り紙を見て雇ってくれないかというのである。千太郎は76歳という彼女の年齢と、変形した指を見て最初は断るが、彼女の置いていったタッパーに入った粒餡を食べてそのおいしさに驚き、餡作りだけで接客はいいからという条件で雇うことにする。しかし、餡作りを50年続けてきたという徳江のこだわりは、彼の想像を遥かに超えていた。下記のレシピからもその一端は伝わってくる。

徳江の餡作り

●材料(どら焼き約110個分)

(あ)製餡
小豆(生豆) 1000g
(い)蜜漬け
グラニュー糖 1300g
蜜漬け用の水 500g
(う)どら餡練り
水飴 150g程度

●作り方

(あ)製餡
1 水をたっぷり入れたボウルに小豆を入れて、約ひと晩、漬けておく(水漬け)。
2 ボウルの中にザルを入れて小豆をあけ、ザルをボウルから上げて流水をかける(洗い)。
3 適量の温水を入れたサワリ(銅のボウル)に2で洗った小豆を入れ、水を豆の上3cmくらいまで足して加熱する。
4 沸騰後、豆にシワが寄ってきたら(3分間ほど)、水を入れたボウルにザルを入れ、小豆をあける(びっくり水)。熱した豆を急に冷やすことでふっくら煮ることができる。再び小豆を適量の温水を入れたサワリにもどし、水を豆の上3cmくらいまで足して加熱する。
5 沸騰後、5分ほど煮たら、4と同様にして湯を替える(渋切り)。小豆をサワリに戻し、温水を豆の上1~2cmくらいまで足して加熱する。
6 沸騰したら火を弱め、フタをした状態でアワがぷつぷつ沸くくらいの弱火で煮込んでいく。途中、豆が湯から出ない程度に湯を足す(本煮)。
7 60~70分煮込んだら火を止め、10分間おく(蒸らし)。
8 冷水を静かに注ぎ、上水が透き通るまで流し続ける(水晒し)。
9 水を入れたボウルにザルを入れ、小豆をあけ、静かに持ち上げて水を切る(水切り)。ボウルに冷水を入れて放置し、ゴ(小豆の煮とけたもの)が沈んだら上水を捨てる。これを上水が透き通るまで2~3回繰り返す。このゴと、ザルで水を切った小豆とを混ぜ合わせて、粒生餡の出来上がり。
(い)蜜漬け
1 サワリに水とグラニュー糖を入れて加熱する。
2 沸騰してグラニュー糖が溶けたら、(あ)の粒生餡を入れる。
3 中心部からもアワが出て全体的に沸騰したら、火を止めてフタをする。
4 2時間以上寝かせる。
(う)どら餡練り
1 蜜漬けした(い)を加熱する。
2 沸騰してきたら、ときどきヘラでサワリの底をこするようにゆっくりと豆を動かす。
3 全体的に沸騰したら中火にし、2と同様にして豆を動かしながら煮詰めていく。
4 とろみがついてきたら水餡を加え、溶けて混ざったら火を止める。
5 番重に流し込んで完成。

(参考文献:「あん」オフィシャルブック)

 このように、時間と手間のかかる繰り返しの多い作業を、徳江は一つひとつ丹念にこなしていくのだった。

 木べらを回しながら湯気がかぶるほどにサワリに顔を近付けるその姿に、千太郎が思わず「小豆の何を見てるんですか?」と尋ねると、返ってきた言葉は「おもてなしだから」「せっかく来てくれたんだから、畑から」。

 この言葉には、後に大きな意味があることがわかってくる……。

 前の晩から水漬けして、夜明け前から煮始め、開店間際にやっと出来上がった餡の入ったどら焼きを徳江と千太郎が試食する。

千太郎「俺、どら焼きひとつ食べるなんてまずないんです。甘党じゃないんですよ。でも、徳江さんの餡がすごいということだけはわかります」

徳江「そんなふうに誉めてもらっても、もうがっかりだわ。甘いものが苦手な人がどら焼き屋をやっていたなんて」

塩どら焼きの味

 徳江の作る粒餡の入ったどら焼きは次第に評判を呼び、「どら春」はいつしか行列のできる繁盛店になっていった。千太郎もこの仕事にやりがいを感じ始めていたが、好事魔多し。先代の未亡人である店のオーナー(浅田美代子)が、徳江が「らい病」ではないかという噂を聞き付け、千太郎に彼女を辞めさせるよう警告しに来たのである。

 らい病=ハンセン病患者に対する世間の偏見と差別については、これまで国内外の数多くの映画でも取り上げられているが(表参照)、治療法が確立し病気が根絶されたに等しい現代でも根深く残る問題である。徳江の場合もとうの昔に治癒して他人にうつることもないのだが、案の定客足はぱたりと止まり、その理由を感じとった彼女は自ら身を引き、千太郎には彼女を守れなかったという悔恨だけが残った。

題名製作年製作国内容
小島の春1940日本国立らい病療養所・長島愛生園に勤める女医・小山正子の手記を映画化。
ベン・ハー1959アメリカハンセン病を発病したベン・ハーの母と妹は「業病の谷」に追われる。
あつい壁1970日本1953年に熊本で起きた龍田寮事件を描く。1951年の藤本事件を題材とした「新・あつい壁」(2007)もある。
パピヨン1973アメリカ刑務所を脱獄したパピヨンがハンセン病コロニーの島に立ち寄る。
砂の器1974日本松本清張の小説が原作。主人公の回想にハンセン病の父が登場。
愛する1997日本遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」が原作。ハンセン病と誤診された女性を描く。
モーターサイクル・ダイアリーズ2003イギリス アメリカ ドイツ アルゼンチン ペルー若き日のチェ・ゲバラが南米旅行の途中にハンセン病コロニーで働く。
ふたたび swing me again2010日本療養所に入れられた元ジャズミュージシャンがかつての仲間を訪ねて旅をするロードムービー。

 しばらくして徳江から千太郎に手紙が届く。そこには14歳の時に病気のせいで自由を奪われ、療養所という名の“格子なき牢獄”で籠の中の鳥のような生活を送ってきた彼女の心情が綴られていた。

 小豆の顔色をよく見ること。小豆の言葉を受け入れてあげること。たとえばそれは、小豆が見てきた雨の日や晴れの日を想像することです。どんな風に吹かれて小豆がやってきたのか、旅の話を聞いてあげることです。

 彼女は小豆を通じて、外に広がる世界と対話してきたのだった。

 こちらに非はないつもりで生きていても、世間の無理解に押しつぶされてしまうことはあります。智恵を働かさなければいけない時もあるのです。そうしたことも伝えるべきでした。

 それは、過去に縛られて生きてきた千太郎にも通じることだった。

 彼は、ワカナと共に郊外の療養所で暮らす徳江を訪ねることにする。この先の展開についてこの場で詳しく述べることはできないが、徳江に再会してヒントをもらった千太郎が、自分のどら焼きを完成させるべく、塩大福ならぬ塩どら焼きに取り組み始めたことだけは記しておく。そしてその味は、この映画のように、ちょっとしょっぱいけれど、後に甘さが残るようなものだろう。

こぼれ話

 ワカナを演じた内田伽羅は樹木の孫であり(祖父:内田裕也、父:本木雅弘、母:内田也哉子)、樹木とは2011年の「奇跡」(是枝裕和監督)以来の2度目の共演となる。また療養所での友人を演じる、樹木と同年代のライバル的存在である市原悦子とは、意外にも本作が初共演。

 そして1970年代のテレビドラマ「時間ですよ」で、悠木千帆時代の樹木と銭湯のお手伝いさん役で共演した浅田美代子が、今回は樹木を攻撃する側に回っているのも興味深い。

 これまでアート的な作風が目立っていた河瀨監督が、商業映画でも才能を証明した作品と言えるだろう。

※文中、ハンセン病に関する過去の差別の例として一部歴史的な表現をそのまま使いました。


【あん】

公式サイト
http://an-movie.com/
作品基本データ
製作国:日本 フランス ドイツ
製作年:2015年
公開年月日:2015年5月30日
上映時間:113分
製作会社:映画『あん』製作委員会
配給:エレファントハウス
カラー/サイズ:カラー/シネマ・スコープ(1:2.35)
スタッフ
監督・脚本:河瀨直美
原作:ドリアン助川:(「あん」(ポプラ社刊))
プロデューサー:福嶋更一郎、大山義人、マサ・サワダ
企画・制作:組画
共同制作:COMME DES CINEMAS
撮影:穐山茂樹
美術:部谷京子
主題歌:秦基博:(「水彩の月」(AUGUSTA RECORDS / Ariola Japan))
録音:森英司
照明:太田康裕
衣裳:小林身和子
宣伝プロデューサー:米満一正
音編集:ロマン・ディムニ
サウンドデザイナー:オリヴィエ・ゴワナール
キャスト
徳江:樹木希林
千太郎:永瀬正敏
桂子:市原悦子
ワカナ:内田伽羅
どら春のオーナー:浅田美代子
ワカナの母:水野美紀
陽平:太賀
若人:兼松若人

(参考文献:KINENOTE)

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。