8月の終わりのことで少々前の話になるが、“開運ブレスレット”を販売していた会社や個人が、経済産業省から業務停止などの処分、指導を受けた(特定商取引法違反)という報道があった。霊感商法などは以前から社会的な問題となっていたが、警察や各省庁など行政が介入しにくい部分もあったので、興味深く見た。
違反行為として認定した事柄は、表示業務違反、虚偽・誇大広告、顧客の意に反する申し込み、勧誘目的不明示、書面不交付・不備記載、脅迫・困惑など。表示には、会社や責任者の名称、氏名、住所などが正確でないなどの事柄も含んでいるが、全体としてのポイントは、「あたかも当該商品の効能について科学的根拠があるかのように表示すること」による優良誤認にあると言える。
開運グッズというのは、昔からたくさんある。寺社のお守りなどはその典型だ。ご利益があると信じる人が、お金を出してそれを手に入れ、いいことがあった、なかったと言っている。そうしたものに確かに有効な作用があると科学的に説明できないという点では、いささか乱暴に思われるかもしれないが、昔からあるお守りも今回処分を受けることになったアクセサリーも、変わりはない。それがかたや敬われ、かたやいかがわしく見られあるいは司直の手にゆだねられるというのは、何が違っているのか。
人の心の働き、今風に言えば脳の機能には、二通りがある。一つは理性。物事を筋道の通った理屈で観察して考える機能、概念的に思考する能力だ。もう一つは、私の不勉強のせいだと思うが西洋哲学で気の利いた用語が見つからない。感性で受け取ったものを、理屈で解釈せずにあるがままに感じ取ったり、受け容れたり拒絶したりする能力だ。洋の東西を問わず、あまねく宗教はこの後者を適切に働かせるように教えているように見える。
一般的な用語のセットが見当たらないので、今日は仮に不正確を承知で前者を理性、後者を感情と呼んで扱う。
理性は理屈で考えて、「真」と「偽」を分けて考えるように働く。一方、感情は理屈抜きの反応を起こす。恐らくこれは、われわれがヒトに進化する前の段階から持っていた脳の機能に由来するのに違いない。理性との洒落で言えば、「信」や「疑」を引き起こす。
そして、理性と感情は、いつも別々に働く。そうした二つがあることが、人間の悩みの根本であるのに違いない。一人ひとりの心の問題も、社会の問題も、多くがこのこととからんで引き起こされているように思える。
というのは、たとえばこういうことだ。誰もが「立派な人だ」と信じていた人が、実際に理屈で見て考えても評価されるべき人である場合に、その人が受ける信頼は持続する。しかし、実際にはたとえば法律に従っていない人だったとなれば、多くの人はその人を非難する側に回る。
真と信がそろっていれば(または偽と疑がそろっていれば)統合された状態だが、信かつ偽ないし真かつ疑というねじれがあれば、統合を欠いた状態となる。この統合を修復するためには、真と信ないし偽と疑という形にするためのさまざまな運動が起こる。その運動は、理性と関係が深い物理的な世界で行われる審判、破壊、不正であったり、感情の世界に作用しようとする優しい声、同情を引く態度、相手を脅かす言動などだ。
運が開けると信じて買ったアクセサリーが、科学的にもそう言えるとなれば、真と信の両方がそろい、統合が成り立つ。しかし実際にはそうではなくて、信はあったが、偽であって、統合を欠いた代物であった。この統合を欠いた状態が容易に露呈し、理性でそのほころびを説明できる場合に、行政は介入できる。信・疑には行政は関与しようがないが、真・偽の分別を付けるのは得意分野だ。件のアクセサリーは、金運が上がるとか、それが何日以内に実現するとかの、理性で分別することが可能な表示をしていた。
一方、たいていの寺や神社で(お金を払って)もらってくるお守りは、「ご利益(りやく)がある」と噂されていても、「利益(りえき)が出る」などとは言わない。つまり、感情の世界に終始していて、理性の世界に踏み込んでいない。したがってそこに統合を欠いた状態を発見することは難しく、信仰は深まり、司直が口出ししてくることもないというわけだ。
いつにもまして宗教じみた話になってしまったが、そのついでに言っておけば、キリスト教の人はこのことを「チェザル(皇帝)のものはチェザルに返せ。神のものは神に返せ」などと言う。新約聖書に出て来るこのセリフの「チェザルのもの」とは一義的には通貨のことを指している。つまり、金と損得、経済の世界は行政が担当し、信心の部分はそれとは関係がないということだ。
さて、食品にももちろん同じ図式があるのだということを理解しておきたい。「これを食べると幸せな気持ちになる」というのであれば、ぎりぎりのところ、司法の介入はちょっと難しいだろう。しかし、「これを食べると健康になる」というのであれば、理性で評価できる世界の話で、司法が目を光らす分野となる。
そこで、理性と感情が統合された理想の食品はどのようか考えてみたい。簡単な話だ。「これは体に良さそうだ」と理屈抜きに思えて、しかも「実際に科学的な検証の結果、これを食べることは健康につながると言える」と説明できる食品だ。成功し、永く食べられ続ける商品はそのようになっているはずだ。
ところが、実際にはその統合を欠いた食品のほうが、私には目につく。根拠不明なまま体に良いことを強調している食品はもちろん、健康に良いと実証されたものの、感情に訴える魅力の全くない食品も、昨今多いのではないか。思うに、食品に携わるビジネスパーソンの多くが行政対策と、その味方となる研究に興味とリソースを傾けているが、その実、感情対策のほうはほとんど空っぽということが多い。最近「うちのこれは何で売れないんでしょうか」と相談を受けた食品は、いずれもそのような形で統合を欠いているものだった。
感情面の対策を、広告会社に任せるという手はある。私のところに相談に来てくれた食品会社の人たちも、相手をうまく見つけたかどうかはわからないが、その考えで来てくれたようだ。
難しいことを専門家に任せるというアイデアは悪くない。そして、広告会社の人たちは、確かにそれなりによい対策を考えてくれるだろう。
しかし問題なのは、モノを作っている人たちが、理性には強く、感情への働きかけには弱いという、統合、バランスを欠いている状態に陥っている、そういう場合が多くなっていることではないだろうか。このままでいくと、食品を扱う仕事は非常に殺伐としたものになっていくに違いない。
「悪いのは健康ばかり気にする消費者」と言いたい向きもあるだろう。そのぼやきにも一理ある。しかし、企業が消費をリードできていないのも、悲しむべきことではないか。もし、食べる側も、食べさせる側も、「長く生存し続ける」という理性で評価可能な世界でしか、食べ物の善し悪しを判断できないのでは、あまりにも寂しすぎる。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。