天候不良による農産物の不作を伝える報道が目に付く。特に影響を受けていないと言う農家がいる一方、こうした報道があるということは、よほど困っている農家もいるのだろう。お見舞い申し上げる。「農業は天候に左右されるから大変だ」と、よく言われる。しかし、同じ時期にいろいろな農家を見ていると、作の善し悪しを左右するのは天候だけではないとつくづく考えさせられる。
こういう話をするとある向きからは反感を買うかもしれないが、確かに多少天候不順があったというある年に、ある同じ地域で、同じ作物を作っている農家の中に、二通りの人を見るのだ。つまり、よく取れずに泣いている人がいる一方、不作で価格が高騰する中、たっぷり収穫してほくほく顔の人もいるのだ。
思うに、作の善し悪しを決める要因にはもちろん天候の善し悪しもあるが、ほかに圃場の適否、そして農家の仕事の上手下手が、厳然とある。災害が起こったとき、「これは天災なのか人災なのか」という議論がしばしば起こるが、同種のことが日々田畑で発生していると考えるとよい。
うまく行かなかったとき、「天候が悪くて」という農家は多い。業績の悪化した会社の社長が「景気が悪くて」というのと同じで、責任を天に負わせて心の平穏を保つのだ。企業経営の場合、同じ気持ちを持つビジネスパーソンが多いときはそれで許されるが、業績好調な企業が多い中でそれを言えば、出資者、取引先、従業員から見放されることになる。農家も、地域では同じ目にさらされているが、都市生活者からはいつも同情を買いやすいかもしれない。
仕事の上手下手は、作り方のほかに売り方にも表れる。市場出荷がメインのある農家は、「欲の皮の突っ張った人は、いつも損をしている。いちばん高い値段で売ろうとして、結局タイミングを誤っていつも最低の値段で売っている」と言い、「そこそこの値段で売れればよいと構えることが大切」と強調する。
この人の場合、“たしなみ”として財産のうちのそう多くない何割かを常に株の売買に仕向けている。「もうはまだなり、まだはもうなり」というような、相場の感覚と緊張感を研ぎ澄ましているためだという。 思うに、人間の力ではどうにもならないものに囲まれた中で、自分や身の回りの人間の安全と成長を確保するのが経営であり、リーダーシップというものだろう。企業の経営者も、船や飛行機のキャプテンも、野球の監督も、芸能人も、「そうだ」というはずだ。私には、農業が他の仕事に比べてひどく特別な仕事だとは、未だに、どうしても思えない。
とはいえ、リスクが高すぎればビジネスはギャンブルに近づいていく。ギャンブルを生業にできる人はそれこそ一部の特別な人となるから、従事する人は減り、さらにギャンブル性を高める。そこで、農産物などの売買のギャンブル性を外部に取り出して特別な資源と能力を持つ人たちに任せ、リスクをヘッジする仕組みとして先物取引が生まれたと考えていいだろう。
思うに、流通業も生産者のリスクを低く抑えるための社会的な機能だったと見ることができる。卸売業や商社などは、価格の変動に対して得と損を吸収することで、生産者と消費者が受ける衝撃のクッションとして働いてきた。
実はこの機能を、昔は小売業も担っていた。私が子供の頃は、生鮮品は八百屋、魚屋、肉屋で買う物で、商店街の近所に出来たばかりのスーパーマーケットは工業製品を買う場所だった。
八百屋のおじさん、おばさんの声は今でも覚えている。彼らが店先で叫んでいるのは、「今日はダイコンが安いよ!」「おいしいナスが入ったからね。持ってって-!」という推奨であり、「コマツナは今日じゃないほうがいいよ!」いう提案だ。安く、量があり、品質のよいものを勧め、高く、数が揃わず、品質の思わしくないものは買い控えさせた。
その後、スーパーマーケットやレストランなどのチェーンストアは、中間流通を減らし、提供する商品を規格化することで恒常的な低価格(サム・ウォルトンの言うEveryday Low Price=EDLP)を実現したとする。
なるほど、チェーンストア運動は消費者のためのビジネスとして理屈の通った行動をとってきた。しかし、行き着いた先の今日、チェーンストアは社会全体の中での重要性を保ち、尊敬される企業群であり続けているだろうか。
もしもだが、生産者(農業、漁業、食品メーカーなど)に対して、「消費者のために、もっと値段を下げろ」としか言えないバイヤーしかいないチェーンであれば、どうか。「天候や景気などのリスクを、わが社はヘッジしない。作る人が全部かぶれ」「なぜなら、消費者がそう望んでいるからだ」という意味にならないだろうか。
また、もしも消費者に対して、「うちは常に安くていいものだけを揃えています」としか言わない売場スタッフしかいないのであれば、どうか。それは社会全体の中では本当は不可能なことだ。それでもそれだけを言い続けるのであれば、人間全体が人間の力ではどうしようもできない世界の中で生きているという真実を隠蔽することになっていないだろうか。
もしも、チェーンストアがそのようであれば、生産サイドから信頼され、支持され続け、品質のよいものを確保し続けることは本当にできるだろうか。また、生産サイドの正確な情報を集め、消費者に伝え続けられるだろうか。
小売業、外食業、食品メーカーが農家と直接契約して農産物を仕入れる形を取るとき、しばしば農家側がある問題を起こすことがある。買取価格を決めて契約しているのに、相場が上がったときに「収穫物が揃わない」と言って、実は密かに市場に出荷して大儲けしているといったことだ。
これは法的に考えれば、どう考えても農家が悪い。ただ、買い手側が「あなたのリスクをうちが引き受けているのだ」と言える行動を実際に取って相手に伝え続け、理解させ続け、農家を安心させ続ける努力をしていたかどうかは、社内の反省材料としてあっていい。
「買い手だけ儲けている」「消費者だけが得をしたがっている」と思わせているようでは、農家はいつまで経っても信頼されるビジネスパーソンになろうとは考えないだろう。そして、その状況のままで、生産者に嘘のない情報開示などを求めてもむなしいばかりだ。
商店街で生鮮品を扱っていた店のおじさん、おばさんたちは、消費のリーダーだった。彼らは社会の仕組みを理解し、よいことも悪いこともいったん全身で受け止め、その甘酸を生産者とも消費者とも分かち合っていた。彼らは消費者を甘やかさず、賢い買い物ができる人々を地域に育て続けていた。
というのは、昔のことだから良く見えているだけで、私は昔の町の小売業の人々を買いかぶっているだけなのだろうか。旧弊は是正すべきだが、過去あったよいことには学び続けるべきだと思うのだが。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。