書くことについて、3人の師匠を私は拝している。その一人の農業技術通信社の昆吉則社長が、「自給率問題で農業を考えるな」と、これは十数年前から口を酸っぱくして言い続けている。ところが、“自給率問題”というのは話として単純で分かりやすく、“安全”や“正義”なども味方に付けているため、このストーリーにからめとられる人が多い。
社会的に影響力のある人たちが、次々に「ショクリョウ自給率を上げる必要があるから」と語る人になっていく。でも、どのようにそれが大切なことなのか、系統立てて説明する人は少ない。単純な話だと思われているので、その話の正当性については判断停止されているのだ。
私自身、昆社長からきつく注意されるまでは、単純に考えて「ショクリョウ自給率上げるべし」と考えていた。その気持ちで書いた文章もある。しかし、そのときに困ったのは、「ショクリョウ自給率」の書き方だ。
学校で教わった通りに書くならば、これは「食糧自給率」となる。漢字の小テストで「食料自給率」と書けば、×が付いて返ってきたはずだ。だから、パソコンに向かって注意深く「食糧」と打ち込み、書き上げた後は試しに「食料」を検索して「食糧」に置換するようにもした。
ところが、あの当時(10年ほど前)にも感じたことだけれど、最近「食料自給」と書いているものをよく見る。特に役所の書類に多い。試しに農水省のサイトで調べてみると、「食糧自給」でヒットするのは290件だけだが、「食料自給」では11,900件ヒットする。こうなると、どうも「食糧自給」のほうが何かの勘違いで書いた誤字のように思われてしまう。 そんなはずはないと思って、新聞社のサイトで記事検索も試みるが、やはりたいていの新聞社では「食糧自給」でヒットするのは数件。「食料自給」ならその数十倍ヒットする(朝日新聞ではそうはならず、「食糧自給」と「食料自給」のヒット数はほぼ拮抗していた。いずれも内容までは読んでいない)。
どうにも腑に落ちないので、国会図書館の蔵書のタイトルで調べてみることにした。今は本当に便利で、NDL-OPACというシステムで、こういうことは簡単に調べられる。
その結果、ちょっと面白いことが分かった。このシステムで、1945年~2008年を対象に、タイトルの欄に「食糧自給」と入れて検索すると、ヒットするのは19件だった。対して「食料自給」ではその倍、40件だった。
面白いというのは、これからだ。「食糧自給」でヒットした19件の出版年は1946年~1996年で、2000年代には皆無だった。一方、「食料自給」でヒットした40件のうち、出版年が1900年代のものは、1993、1995、1998、1999年の4件のみ。ほかはすべて2000年代となっている。
ちょっと試しにやってみただけのことだから、これだけのことで何かが断定できるとは思わない。しかし、これから検証すべき課題が何であるかは、これだけで十分分かる。
課題はこうなる。
【課題】以下の1と2が正しいと言えるかどうかを検証すること。また、3と4のどちらが正しいか。いずれにせよ、3ないし4の経緯はいかなるものだったか。
1.1900年代には、「食糧自給」という言葉は使われていたが、「食料自給」という言葉は使われていなかった。
2.「食料自給」という言葉は、1900年代末期に生まれた新語であり、2000年代初頭の流行語の一つである。
3.「食料自給」という言葉が使われるようになって以降、「食糧自給」という言葉は淘汰された。
4.あるいは、「食料自給」という言葉が使われるようになって以降、「食糧自給」という言葉は抹殺された。
いまのところ、課題としてしかご紹介できない。ただ、2については、相当の確率で正しいはずだと考えている。「食糧自給率」とは、主にコメやムギなどの穀類を自分たちでまかなえるかどうかということを問題とする概念だった。それがいつの間にか「食料自給率」という新語に置き換えられ、あらゆる食べ物(その中にはヒトが食べなくても生きて行けるものも含まれる)を自分たちでまかなえるものかどうかということを問題とする新概念にすり替えられている。
そこで考えるべきは、「食料自給率」という21世紀の新概念は、私たちにとって本当に必要なものだったのかどうか。そのパーセンテージは果たして国家の防衛、国民の生存にとって何か意味のある数字であるのかどうか(亡霊や幻の類ではないのか)。そして、それに数千億の血税をし向ける意義はあるのかどうか。野生の勘の鋭い人なら、「そんなものを調べるのはやめておきなさい」と忠告してくれると思うが。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。