遅ればせとなるが、正月の話題から。おせち料理のことだ。ひとと話していると、どうもおせち料理のウケが悪い。テレビで、「どうしたらあれをおいしく食べられるか」「余ったおせちをどうするか」という話題を扱っているのも観たことがある。“ごちそう”のはずが、ずいぶんな話だ。
そう言う私自身、実はあの中に好きな料理というものがない。私や妻の実家へ行っては、お重の前で作り笑い。かまぼこのおいしいものが入っていれば、そればかりつついている。
「私は好きだ」という方もいると思う。決してその人の好みにけちをつけようというのではない。「私は嫌い」と言いながら、デパートや通販などで何万円も払っておせち料理のお重を買っている身内や知人たちを不思議に思っての話だ。「嫌い」の理由はだいたい決まっている。「味が濃い」「甘い」というものだ。妻など何か口に入れては、「普通に料理したら、さぞおいしいでしょうに」など、こそこそつぶやいている。料理には失礼だが、正直に言って同感だ。つまり、おせち料理は、現代のわれわれからすると、「普通の料理」ではない。今日の日本料理店の中に、普段の営業の中であのように味が濃く甘い調理をするところはないだろう。家庭でも少ないはずだ。
おせち料理を、濃く、甘く作る理由は2つほど考えられる。おせち料理は、正月になるべく台所を使いたくないために、数日間保存の利くものとして作るという。塩分や糖分で浸透圧を高めて、保存性を良くしたのだろう。また、かつては甘いもの、特に砂糖は貴重品で、強い甘さは人々にとって珍しいものだった。だから、ことさらに甘く作ったということもあるはずだ。
なるべく台所を使いたくない理由として、「年神を迎えるのに台所を騒がしくしない」という説明があるようだが、各地に雑煮や福茶の民俗があり、火の使用が正月の禁忌になっていたわけではない。そもそも、民俗調査の報告書を眺めていても、今日伝えられているようなおせち料理のように華やかな正月料理の話というものにはあまり出くわさない。
恐らくは、特に都市の武家や商家のように年始から接待の必要がある家で豪華な料理を用意する必要が生じ、一方、晴れ着を着た女性があまり大仕事をしないで済むようにということで発達していった料理に違いない。「まめに働く」と言って黒豆を食べたり、「腰が曲がるまで」とエビを食べたりといった洒落があるのも、いかにも都会的だ。
そう考えてみると、正月におせち料理がなくとも、日本の常民(文化を伝承する者としての一般の民衆)として間違った正月の過ごし方をしているようには思われない。都会的でないということはあるかもしれないが、普段着でテレビを観ながら過ごし、来客もなく、元日から台所もコンビニも使える現代の都市生活者にとってはむなしいばかりだ。
「そうは言っても、伝統は大切だ。正月におせち不要論は暴論だ」という向きもあるだろう。もっともなことだ。近代以前に traditional(伝統的)という概念はなかったと言う※から、「伝統」を演出し、味わうことは現代人の証しであり、過去を征服した者の誇りでもあるだろう。おせち料理のそれぞれの形とお重を残すことは、意味のないことではない。
しかし、味は変えてはどうなのか。濃く、甘くしなくても日持ちを良くする方法については、今日われわれはいろいろなものを持っている。例えば、食品添加物やそれに準ずるものを用いて、あっさりと食べやすい味にして塩分と糖分を抑え、「ヘルシー」をうたう手はあるはずだ。その際、「しかじかの物質を使ったために、塩分と糖分を抑えることに成功した」と伝えることは忘れてはいけない。あるいはレトルトパウチや新含気調理のようにパック詰めのまま提供し、重箱は使い捨てをやめて消費者に自前で用意してもらう。これで「包材を減らした」という打ち出し方もあるに違いない。
どちらも、現代人がうなずきやすいストーリーだ。私がこう書いただけでは、「でも無理」と思うことが多いだろうが、「でも」を乗り越える工夫について、プロは知恵を搾り切っているだろうか。
先を行っている例はほかにいくらでもある。1つは洋菓子だ。昔のケーキは、猛烈に甘いものだった。理由はおせち料理と同じだ。かつては甘さそのものが価値だったし、糖度が高ければ傷むのを遅らせることができた。しかし時代が下るにつれ、極端な甘さよりも、さまざまな素材の味を感じられるような甘さが好まれるようになった。「甘いものを食べて太りたくない」という消費者心理も強くなった。
それで、ケーキは年々甘さ控えめに作られるようになってきた。しかし、作り手にとっては頭の痛い問題も少なくなかった。クリームの糖度を下げれば足が早くなる。もっと深刻なことには、硬めにホイップすることが容易でなくなった。そういう問題に対して、洋菓子の世界は衛生管理や温度管理を徹底したり、新しい材料を用いたり、軟らかいクリームでおいしく感じる商品を開発したりといった努力をしてきた。
おせち料理も、もうそろそろ変わるべきではないか。年に一度のことのために知恵を搾ったりコストをかけるのは嫌なことかもしれない。だが、正月料理という食文化を担っているという自負があるならば、常に適正な技術革新がなければ話にならない。どの業種にせよ、老舗と言われるところはそれをやってきた。
私は子供に聞かれるのだ。「パパ、なんでおばあちゃんの昆布巻きはあっさりしてておいしいのに、売っているのは甘ったるくておいしくないの?」と。日頃、子供には働く大人のいい話を聞かせようと努めているので、こういう場面は本当に困る。
※「暴走する世界」(アンソニ・ギデンズ著、ダイヤモンド社)、同書が参照している「創られた伝統」(エリック・ボブズボウム、テレンス・レンジャー著、紀伊國屋書店)に、このことについて主にヨーロッパのことが書かれている。日本についても同様のことがあると私は考える。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。