連休中、妻の父に温泉につかってもらおうということで、義父、妻、子供と私で車で出かけた。温泉と言っても首都圏の健康ランドのようなもので、朝食は付かない。それで翌朝、帰途にあったファミリーレストランで食事をした。我々の席を担当した店員は、妻の「これにはドリンクバーは付くの?」という質問を「後で説明します」と遮った。振り向けば、別の店員が、店内をバスケットの試合のように重心を落として敏捷に走り回っている。最初から嫌な予感はしていた。
「以上でご注文はおそろいでしょうか」という声に、携帯メールをチェックするのをやめてテーブルを見て、唖然とした。和食を頼んだ妻と私の膳は問題ない。だが、義父が注文したトーストと、子供が注文したピザトーストは、どちらも耳の部分が黒こげで、皿に毛筆でパンの絵を描いたようだった。
それでも手を付けようとしていた義父には悪いとは思ったが、食道ガンを摘出した人と、まだ先の長い子供にこんなものは食べさせたくない。たまらず、「トーストをこんな風に焼いてはいけない」と店員に言った。
最近の若い人は、イレギュラーなことに弱いと言うが、この店員の場合もそうだった。特に語気を強めて言ったわけではないのだが、「いけない」と言った途端、その人は直立不動になって「申し訳ありません!」と泣きそうな顔で頭を下げてパニック状態になり、むしろこちらの方があわててしまった。
問題の商品は下げることになったのだが、食パンがもう品切れだと言う。それで、店員は余計パニックに陥ったらしい。察するに、キッチンは「焦げちゃったけど、もうパンがないから出しちゃえ」と出したのかも知れない。であれば、ホール担当のこの店員は被害者の一人とも考えられる。
結局、「これならあります」と言う丸パンを使ったメニューに替えてもらった。新しいオーダーに従って、元のメニューより数十円高い伝票がテーブルに置かれてさらに嫌な思いをしたが、もはやばかばかしく、黙っていた。
会計の時、杓子定規な私がレジに向かうと角が立つのは目に見えていたので、妻に任せた。社員とおぼしき店員が「お出ししてはならないものを出してしまい、申し訳ありませんでした」と頭を下げて、問題の商品の代金は取らなかったらしい。
妻が「オーブンの温度が高かったんですか?」など聞くと、「プログラムしてある温度の上下5℃の調整は利くのですが」といった説明をしてくれたという。オーブンの設定がずれたか、センサーなどに故障があるのだろう。そして、「しかし、いずれにせよ、焼き上がったものを見れば、お客様にお出ししていいものかどうかはわかりますので、私たちの間違いです」と言ったという。
そこまで聞いて安心した。営業の主役は人間であって、それが食べ物として適したものかどうかは、「観れば、分かる」のだ。提供前の最後の検品、それをする人、それをする場所を、外食業ではまとめて「デシャップ」(dish up)という。本来、この業務は店長格の従業員の仕事だが、店長が忙しく、「観る目」のないパート・アルバイトの誰かに、デシャップの権限を委譲していたのかもしれない。
ところで、実はこのときデシャップで見逃されたのは、パンの焦げだけではない。添えられていたパセリが、干からびていた。妻はそれを見て「使い回しね」と、あっさりと断定していた。私はそうは思わなかった(恐らく食材の管理が悪い)のだが、妻の言葉を聞いて、「飲食店は一度出したものを使い回しする」という思い込みは、消費者に根強いものらしいと感じた。
学生のときにいくつかの飲食店でアルバイトをしたが、そのときの自分の感覚からすると、たとえばサンドイッチに添えたパセリ、前菜に絞るように添えたレモンなど、どんなにまだ使えそうに見えるものでも、下膳した皿からそれらを取り上げて、洗って別のお客に提供するなど、怖くてとてもできたものではなかった。
もちろん、どの店の店主もそんなことはさせなかったし、もしやれと言われてもできなかったと思う。見た目に問題なさそうに見えても、実際には客席で誰が何をしたかは分からないのだ。従って、何が起こるかも分からない。むしろ、テーブルにはシュガーポットもカスターセットも置いたままにしたくないぐらいだった。ある店の店主は、私の調理や提供の仕方に少しでも丁寧さ、慎重さ、用心深さが足りないと見て取ると、「食べ物なんだから」と諌めてくれた。話はそれで通じたし、それが最も私の心に響く言葉だった。
だから、付け合わせの使い回しなど、一種の都市伝説に違いないと、長年思いこんでいた。ところが最近、飲食店の経験が長いあるコンサルタントと話をしていて、その種のことは「昔から否定派と是認派がいて、外食業界を二分している」と言われ、腰が抜けるほど驚いた。「お客が寄りつかないような店には、そういうことをしているところもあるかもしれないけれど、『二分』は言い過ぎでは」と勝手に解釈していた。
ところが、船場吉兆で付け合わせどころか、料理そのものの使い回しが発覚したというニュースだ。女将は「弁解の余地はない」と言ったというが、フードビジネスの質、イメージ、社会的地位の向上に長年努めてきた多くの人々の苦労を、この人たちは台無しにした。「観れば、分かる」ではなく、「観ても、分からなくする」をやったこの店の場合、もはや反省の余地さえ認めたくないというのが、外食に携わる人間の一人のつもりでいる、私の感想だ。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。