前回は食品の品質保持にまつわる話を紹介し、ただし受注生産を基本に考えるべきとしめくくった。とはいえ、受注生産がままならないのが農水産物だ。これらは天候や季節の影響をもろに受け、野菜や魚介などは常に流通量と価格が変動している。さらに、政治の影響も受ける。また、市場に対応するように生産を行っても、実際に供給するまでにはタイムラグがあり、結果、需給のバランスが完全に安定することはない。昨今話題の穀物価格からもそのことは分かる。農家が「農業と工業は相容れない」とうそぶく所以だ。こういうものの品質をいかに長く(できるならば次の収穫期を越えてまで長く)保持するかは、人類永遠の課題だろう。
筆者は北海道育ちで、子供のころのこんなことをときどき思い出す。北海道の人間というのは、寒い冬の日に燃えさかるストーブに当たりながらアイスクリームをなめたり、冷たいサイダー(ソーダ水)を飲んだりというおかしなことをすることがある。コンビニなどなく、自動販売機もそう多くはなかった昔の田舎の家では、サイダーをケースで買って物置に置いていたりする。それを、家の裏口から出て、一瞬吹雪を突いて取りに行く。
ひっそりとした物置の片隅、木のケースの中に並んだサイダー瓶は、最初水晶のように透き通っている。ところが瓶を手に取った途端、中身が一瞬にして半透明に濁るのだ。ストーブのそばに戻って、それをコップに注ぐと、雪を混ぜたようなサイダーがトポトポと出てくる。雲のようにつかみどころがないほどきめ細かなシャーベット状のサイダーが、口の中で綿菓子のように消えていく。あの食感というのは、何歳になって思い出してもうっとりとしてしまう。
いや、言いたいのは過冷却という現象だ。液体の温度を下げて融点を下回ると物質は固体になると、学校では習った。しかし、本当はいつもそうなるとは限らない。塵などを含まない水に振動などのショックを与えず、ゆっくり温度を下げていくと、氷点下になってもなかなか凍らないことがある。この状態を過冷却という。
水の過冷却の状態は、静かに温度を下げるという方法の他に、3000Vといった高い電圧をかけることでも得られるという。フィールテクノロジー(島根県大田市、三谷明彦社長)は、この現象を応用した鮮度保持の技術を「氷感」と名付け、氷点下で無凍結を可能にする冷蔵庫(利用する温度から言えば冷凍庫だが、凍結しないのでここでは冷蔵庫とする)を開発し、販売している。
通常の冷凍で食品を保存すると、細胞の中に出来た鋭利な氷が細胞膜や細胞壁を傷つけ、ドリップを起こして味が抜けたり、食感を悪くしたりする。しかし、過冷却の状態で食品を保存すると、そうした問題は起こらず、品質を保ったまま、長期保存が可能になる。
氷感冷蔵庫は、これまでに各地のレストラン、ホテル、旅館などに納入し、野菜、肉、魚介などの食材やワインなどの飲料の長期保存に活用されている。また、生花店でも活用されている。
三谷社長によれば、もともとはカニ専門店を営業していた折、取り扱っていたカニの保存方法に頭を痛め、その悩みを解消するために研究した成果だという。ところが、これが世の中のいろいろな仕組みを変えるかも知れない技術として、注目を浴びている。医療分野からは、臓器や血液の保存への応用が期待されている。また、食品の保存については、現在はレストランやホテルで小規模に使われているのがメインだが、これを大規模に使う動きが広がりつつある。
氷感の装置は既存冷凍庫への後付けが可能で、大きなサイズの冷凍庫にも対応できる。ウォークインのものや、冷凍倉庫にも設置が可能という。今後家庭にも入ってくるだろう。また、氷感冷蔵庫搭載の車両も試作している。つまり、圃場や漁場から家庭の台所までを貫く氷感応用のコールドチェーンは、技術的にはすでに構築可能になっているのだ。
農水産物を大量に過冷却の状態で保存、流通できたら、世界はどうなるだろうか。前回書いた趣旨とは違って、この場合は作れるときにありったけ作っておくということが可能になる。「農業と工業は相容れない」ということは、なくなっていくだろう。市場、相場の動きも変わるだろう。氷感応用のコールドチェーンが確立した国や地域では、農産物価格の乱高下は緩和されるに違いない。すると、農産物の売りが、ある時期のある国や地域に集中することが減っていき、うまくすると飢餓撲滅にも一役買うかもしれない。
一方、「旬や季節感がなくなる」と懸念する向きもあるだろう。心配はもっともなことだ。ただ、同様のことは、これまでも食品保存のイノベーションが起こるたびに言われてきた。だから我々はもう、その学習から卒業していなければいけない。つまり、心、情緒の問題は別途、科学技術に負けないだけの熱心さとリソースをもって興隆させ、新しい文化を生むことだ。そして、新しい科学技術と新しい文化とで、新しい文明を作っていくべきなのだ――芸術の秋のススメである。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。