以前、味の素の広報の方が漏らしていた。「最近は、世界的に化学(chemistry)、酸(acid)という言葉の受けが悪い。悪いものの代表のように使われているケースが目立つ。1960年代までは、この二つの言葉は、世界を良くする夢のキーワードだったのに……」。かつて”夢の言葉”だったから、「化学調味料」という言葉が使われたのも、自然なことだった。そう考えてみると、「うまみ調味料」という言葉はいかにも即物的で味気なく思えてくる。
商品に“夢の言葉”を冠する例は他にもある。「電子レンジ」の「電子」は、機械の仕組みを表すというよりは、当時流行の言葉だったから採用されたという。
商品の内容とほとんど結び付きのない言葉が付くことも多い。「天津丼」の「天津」。中国の天津で食べられていたメニューというわけではなく、当時世界への扉であった天津の新しさやおしゃれさにあやかったものとか。「電気ブラン」の「電気」。「文化包丁」の「文化」など、この種のものには枚挙にいとまがない。
こうした”夢の言葉”は流行の一つだけに、多くの場合、時代ととも廃れて使われなくなる。ただ、単にすたれるだけでなく、“悪玉”に回ってしまったものというのは少ないだろう。「化学」はそういう不幸な言葉だ。
なぜ悪玉にされてしまったのか。きっかけはいくつか挙げられる――レイチェル・カーソンの「沈黙の春」、日本では有吉佐和子の「複合汚染」の出版、そして現実に起こった多くの公害問題から、化学物質全般の印象が悪くなった。
注意したいのは、印象が悪くなったのは言葉だけでなく、これは化学という方法全体にとっての問題だということだ。いや、ことは化学だけにとどまらない。自然科学や近代的工業技術全体が、この頃からさまざまな攻撃を受けやすくなった。
では、上記のきっかけが元になって、何が起こったのか。人々は気付いたのだ。自然科学や近代的工業技術が、万能ではないという、当たり前のことに。
日本では、明治以降に思想、学問、産業が解放されて以来、自然科学や近代的工業技術は、おおむね、頼もしい力を持ったものとして受け入れられてきた。それは、国力を増し、生活をよりよくしてきた。
鉄の塊が猛スピードで地上を駆けたり、海に浮かんだり、空を飛んだりという“神業”も、自然科学や近代的工業技術の賜物だ。人間は、”味”を合成することもできるようになった。治らないとされた病気も治せるようになった。農村では、病害虫と雑草を抑える薬も使えるようになった。人々はそれに驚き、喜んだ。
そしてその間、人知れず宗教の力が弱まっていったと言えば、反発を買うだろうか。「○○教」と名前の付く、体系的な宗教だけの話ではない。今も、都市や農村の路傍には多くの小さな祠や仏像があるが、昔の日本人は、そうした身近な神仏を相当に信仰し、生活の中に宗教心が溶け込んでいた。目に見える祠や仏像以外にも、人々の心の中には地域ごとにさまざまな神仏についての言い伝えが刻まれていた。そして、困ったときには”神頼み”をしていたのだ。
その宗教心が、自然科学や近代的工業技術の普及とともに、相対的に力を失っていった。人間が“神業”を身に付けて来たからだ。神頼みするまでもなく、自分で解決できることが増えた。神仏を念頭に行ってきた、生活の中の小さな儀式や習慣の数々は、「迷」の字を付けられて「迷信」と呼ばれるようになった。
力を失った神々がどうなるか。これを知っておくことは、今日自然科学や近代的工業技術に携わる我々にとって示唆に富むことなので銘記されたい。
例えば、昔話に「やまんば」の話がある。山に棲み、大きな動物も人も食べてしまうという恐ろしい老女の話は、誰しも子供の頃に聞いたことがあるだろう。
実はこのやまんばは、山の神に起源を求めることができるという。日本の山の神は、地域によって多少の異同はあるが、だいたい共通するのは、山にいて、あるいは山そのもので、女神だということ。多く、春に山から里に下りてきて田の神となる。また、嫉妬深いとも言われ、祟ると恐ろしいと考えられてきた。
田の神として稲を育み、病害虫や鳥害から守るなど、生産に直接かかわり、怒らせるわけにはいかない神として、農村を中心に日本人は山の神を非常に大切にしてきた。しかし、都市化(明治以前からある)が進むとともに、山の神の“ありがたみ”の部分を感じない人々が増えた。それでも人々の記憶に残ったのは、山の神の“恐ろしさ”の部分だ。かくして、尊敬されてきた山の神は、力の強さと恐ろしさだけを留めた妖怪、やまんばに姿を変えてしまった。
古くから伝えられる妖怪の類には、このようにかつて神として信仰されたものが、“ありがたみ”を喪失し、“恐ろしさ”だけを残したものが多い。
今、自然科学と近代的工業技術は、新しい妖怪になりつつある。万能ではない点が強調され、しかしその力の強さは、人々の心に残っているからだ。
妖怪への道から逃れるためには、人々に“ありがたみ”を感じさせる戦略が必要だ。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。