生卵を割ろうと手に取ったとき、なぜかは分からないが妙に嫌な予感がした。見た目は普通の鶏卵。おかしなところは何もないように見えた。テーブルに打ち付けて割り、小鉢の上で開けると、その瞬間強烈な悪臭が広がった。出てきたのは、ドブのような臭いを発する濃褐色の液体だった。
もう二十数年も前の学生時代の話で恐縮だが、ある公共施設での朝食のときだった。吐き気を催しそうになるのをこらえて席を立ち、小鉢を持った手を前に突き出して、つまんだ鼻から遠ざけて歩いた。厨房にいた食堂のおばさんを呼んで、小鉢の中身を見せた。彼女のせりふは忘れられない。
「おかしいねえ。そんなはずないんだけどねえ」
ずっこけた。それは、本来こちらのせりふなのだ。私はてっきり、「あら、申し訳ないね」とかと言われるものだと思っていたのだ。ところが彼女は、小鉢をのぞき込んで首をかしげ、私の顔を見比べている。謝るような気配はなくて、まるで私が卵に何か仕掛けをしたんではないかとでも言わんばかり。代わりの卵を出すときも、実に納得がいかないといった様子だった。
2004年、京都府の養鶏業者が鳥インフルエンザ発生の通報を怠った事件が報道される中、「1カ月前の卵を出荷していたこともあった」など、ずさんな鶏卵の管理の例をテレビが伝えていた。それを見聞きして、驚きあきれると同時に、あの褐色の液体を思い出し、さもありなんとうなずいたものだ。
数年前、ある給食会社が受託先で食中毒を出し、営業停止の処分を受けた。O157によるものだった。給食会社によれば、厨房での食材の取り扱いは完璧を期していたつもりではあった。ところが、仕入れた肉がO157で汚染されており、それを扱った手でほかの食材に触れたのか、なにかよく解明されていない経路によってか、それが生食用の食材に移り、食中毒発生となった。
もちろん管理にすきがあったのであり、処分は甘んじて受け入れ、反省もし、改善もした。ただ、正直な気持ちとして、社長は「実は納得のいかないところがある」と打ち明けてくれた。給食の現場は処分を受けたが、原因となった肉を納入した業者、それを加工した業者は調べを受けず、おとがめもないのはなぜなのだろう、ということだった。
すし店や和食店で刺身を出す。どんなに完璧な管理、調理を行っても、生の魚を提供すれば、ある確率で寄生虫や微生物による食中毒は発生する。その際、多くの場合、店は処分を受けたり補償を求められたりする。通常、そのリスクは店が取っており、漁業者、卸売業者、そして消費者が取るものとは考えられていない。
最終的に消費者に食べ物を提供する者にとって、「そんなはずないんだけどねえ」と考えてしまうようなことは、枚挙にいとまがない。それでも、法と社会通念は、“最終的な提供者は、完璧な管理者たれ”と言っている。
完璧な管理をするにはどうするか。お客に腐った卵を割らせないためには、店が卵を割って、小皿に落として提供する方法があるだろう。肉は、肉だけを扱う工場で加熱したものだけを仕入れるという方法もあるだろう。そして、刺身は……。
「スターバックス」は、日本では96年から展開が始まったことになっているが、実は94年に成田空港第2ターミナルの出国審査後のエリアに1店舗を出店している(そこを日本と言えるかどうか分からないが)。当時、オープンすると聞いて、すぐに取材に出かけた。厨房機器に詳しいコンサルタントの王利彰氏にも同行してもらった。
国内メディアで初めて「スターバックス」の仕組みを見聞し、写真を紹介できると気負い、興奮したものだ。しかし、その取材で心に残ったのは、「スターバックス」そのものよりも、ライセンシーとして店を運営していた会社の考え方の方だった。
それを運営していたのはマリオット・グループの1社だった。その会社は、「スターバックス」の横で「bento」(弁当)の販売も行っていた。王氏がその弁当の食材や調理について話を振ったとき、彼らから意外なことを聞いた。
「マリオットは、加熱しない食材は提供しません」
現在は確認していないが、94年当時、彼らはそういうルールを持っていたということだ。
衛生管理にも詳しい王氏には、その頃別な米国のファストフードチェーンが起こしたO157による食中毒事件について、解説を執筆してもらって間もない頃だった。そのこともあって、これを聞いた途端、王氏と私は顔を見合わせて、「なるほど」と大いに感心した。どのような環境でも、どのような食材を使っても、絶対に食中毒は出さない――その決意が、極めて簡潔で具体的な行動として全グループに徹底されているのだと理解した。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。