元・いずみ開発企画室長で、現在は宮城県食産業商業振興課に勤務する三輪宏子氏の呼び掛けで、2年前、食品に関する小さな勉強会が開かれた。食品メーカーの開発担当者と食品や外食の分野で執筆することが多い記者、編集者が自発的に集まり、とかく悪玉とされがちなものについて専門家の説明を聞こうというものだった。
テーマの一つが農薬で、その回にはシンジェンタと民間の育種農場の方に来てもらった。シンジェンタの方からは、農薬開発の過程、効果、安全性、法令などについて説明があり、育種農場の方からは、スリップス類(アザミウマ類)などをはじめ、最近の病虫害と農薬の必要性について話してもらった。どちらも詳しく分かりやすい説明で、質疑応答にもたっぷりお付き合いいただいた。
会の終わりに、三輪氏が「現在の農薬について(特に必要性、安全性について)理解ができた人」に挙手を求めると、集まった十数名のほぼ全員の手が即座に挙がった。面白いのは次だ。「でも、やっぱり農薬を使ったものは利用したくない人」と聞くと、数名がおずおずと手を挙げた。
そこで、それぞれに「なぜ?」と聞いたが、実は本人たちにも「なぜ」は分からない様子だった。思いとしては強いが、説明はできない。しかしそれで彼らを問い詰めるようなこともなく、三輪氏も2人の講師も挙手した人も含め、全員で「なるほど」という風にうなりながら解散した。
私はその時確信した。農薬を含むいくつかの化学物質が忌避されたり、攻撃されたりするのは、科学的理由によるよりも、実は「なんとなく」が強いのだ。それを“好き嫌い”とも言う。そう言うと軽く聞こえるが、実はそうではない。むしろ非常に重く厄介だ。
理由が乏しければ論破しようと考えるのが現代人、とりわけ科学者と法曹だろう。しかし、ここで考え直さなければならない。理由がない考えや行動(農薬のリスクを科学的に説明することを意味しているのではない)は、論でねじ伏せることができないのだ。土俵に上がって来ない相手とは相撲の取りようがない。。
たとえ話だ。ここに、カタツムリを見ると鳥肌が立って叫びたくなるという女性がいるとする。彼女は今、ビストロでデート中で、傍らの男性が彼女の手を取って切々と、懇々と、何かを説得している。プロポーズでも別れ話でもない。曰く「エスカルゴは動いたりしないよ。食用カタツムリに毒はないし。熱いガーリックバターで調理するから、感染症や寄生虫の心配はないんだよ。だから……」。
彼の話が丁寧であればあるほど、ゆるぎない論理性を持てば持つほど、彼女はどう感じるだろうか。恐らくは席を蹴って店を出ていくだろう。「一口食べればおいしい! って飛び上がって喜んだはずなのに」と、彼氏が手形も鮮やかな頬をさすりながらつぶやいたところで、どうなるものでもない。
BtoBの商品は、その製品の安全性や経済性ないし必要性がユーザーに伝わればいい。しかし、BtoCの商品ならば、安全性や経済性は当然のこととして、それ以前に“買いたい”“使いたい”という欲求を惹起するイメージ作りをしなければならない。
ここで農薬の不幸は、BtoB商品でありながら、今日その使用の有無が食品というBtoC商品の属性の一つとなってしまっていることだ。BtoBでやってきた通りのコミュニケーションでは、エスカルゴを勧める男性と同じことになりかねない。
農薬への理解促進やイメージの改善はフードシステムとして生産から流通までの各社が取り組むべきで、特にBtoCである小売りや外食が負うべき役割は大きいという考え方もある。これは正論だ。しかし、小売りや外食の店頭で、農薬を使用しているがゆえの商品の魅力まで訴える思い切ったコミュニケーションを展開した例はなかなか聞かない。
だからと言って、「役割を果たしてくれない」と小売り、外食などBtoC企業を非難するのは、ちょっと厳しい。小売り、外食などBtoC企業は、消費者のことをよく理解している。人々が論理ではなく感情で嫌っているものを好きにさせる、そのことの難しさを彼らは文字通り痛いほどよく知っているからだ。リスクを負ってまで他業界のコミュニケーション戦略の失敗を肩代わりしては、株主に対しても説明がつかない。
この現状を打破できるのは、確かなコミュニケーション戦略を持ったNPOということになるかも知れない。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。