米国産およびカナダ産牛肉輸入の年内再開が具体的になりつつある。米国の牛肉生産・流通のやり方には改善すべき点がたくさんあるにせよ、BSE(牛海綿状脳症)対策として、日本政府が全頭検査や禁輸にこだわる必要はない。要は、適正な評価に従って有効な対策が講じられ、ヒトへの感染の確率が低くできればいいのだ。
BSEを根絶できないうちは、BSE感染牛の肉がヒトの口に入る確率を0%にすることはできない。しかし、危険部位の除去などで、確率を低くすることはできる。今回報じられている年内輸入再開というのも、その確率を“無視できるほど”低くできる見通しを食品安全委員会プリオン専門調査会が立てたということにほかならない。とは言いながら、確率論だけで人々を納得させることができないところが、ビジネスの妙であり、難しさだ。
実際、BSEを巡っては、「とかく消費者は危険ゼロを求めてくる」「100%安全な食品などあり得ないのに」と嘆く人にしばしば出会う。つまり、消費者を「不合理なことを言うわがままで無学な人々」と言いたい人なのだが、こういう態度はいただけない。行政マンや研究者の嘆きとしては妥当と言えるが、実際に食肉や肉料理を商品として商う人が同じ嘆きを発することは、ビジネスパーソンとして適当とは思えない。
「絶対に安全なものが食べたい」というのは、生き物である人間の偽らざる希望だ。このセリフを額面通りに受け取って嘲笑することは誰にでもできる。しかし、ある声にこめられた人々の真意を探り、それに応えようとする非凡な態度からこそ、ビジネスは生まれる。そしてこの場合の真意とは、「私は“コンマ・ゼロ・何パーセント”といった数字として扱われたくない」あるいは「自分が不幸にあったとき、“しかたがなかった”で片付けられたくない」という気持ち、すなわち、生きた人間として敬意なり愛情なりをもって遇されたい、という気持ちだ。
1971年に米国フォード社がPintoという車を売り出したが、この車には致命的な欠陥があった。低速でも車体後部に衝突があると燃料タンクが容易に壊れて発火し、死亡事故になりやすい。この欠陥は、1台当たり11ドルで改善可能なことが分かったが、当時の経営陣は、全部をリコールして修理した場合と、欠陥を放置し、事故で死傷した人々に補償をしていった場合と、両方のコストを秤にかけ、結局後者を選択した。この経営判断の結果、1977年までに約500人の人々が死亡したという。
これに関する訴訟でフォードは負け、この顛末をモデルとした映画まで作られ、ブランドに手痛い傷を受けた。フォードのコストダウンの選択は消費者の利益でもあるので、誤りではないと主張する法学者もいる。しかし大衆はその考えを好まない。それは500人という死者の数によるものだろうか? いやむしろ、統計上の確率およびそれから導いた金銭の多寡だけを問題とし、人命の重さを考慮した形跡が認められなかったことで反感を買ったのではなかったか? だから、たとえリコールを実施していたとしても、予め自社製品が原因で死ぬ人の数をコストとして考えるおぞましい比較検討があったと伝わるだけでスキャンダルとなったはずだ。
確率と経済原則だけで損得を考えるこの種のこざかしい計算は、軍事では賞賛されるかも知れない。しかし、消費者を相手としたビジネスでは、人間に対する敬意や愛情抜きには人々の支持は到底得られず、結局成功しない。Pintoはその際立った例だ。
また、Pintoのような自動車がなくとも、自動車のある社会では必ず交通事故が起き、実際に毎日多くの人々が死傷している。それでも「自動車をなくせ!」という声がメジャーにならない理由を、「人々が車の便利さを知っているから」と説明する人は多い。しかしこの回答は完全ではない。
自動車ディーラーにも、「100%安全な車はありません」と堂々と言うセールスマンはいる。しかしそれに続けて、「……でも、便利ですから買って当然です」と冷淡に続ける人は少ないだろう。「……でも、わが社は安全性向上のために、しかじかの工夫をしています」と続けるディーラーが成功する。
近年メルセデスのユーザーが次もメルセデスを選ぶ理由の多くは「安心感」だという。メルセデスが関与する自動車事故が、今日0件になったわけではないのに、だ。かつて、技術者ベラ・バレニーが「車で人が死ぬことがあってはならない」と主張したこと、それによって彼らの人間に対する敬意、愛情を人々が感じたことで、メルセデスは成功している。
「100%安全な食品はありません」――行政からの説明はそれで十分だ。しかし、食品メーカー、小売業、外食業は、その句を継いで後に一言付け加えなければならない。その一言とは、「……でも、おいしいから食べて当然です」ではない。「……でも、私たちは安全な牛肉を手に入れるために、しかじかの手を打っています」と言えるかどうかが問われる。
「遂に輸入再開!」と小躍りしている場合ではない。お鉢はすでに行政からこっち(企業)に回って来ているのである。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。