今夏、米国では飼料用のGM(遺伝子組換え)アルファルファが流通する見通しという。目を引くのは、これまでに商品化されているGM作物は、ダイズ、トウモロコシ、ナタネ、ワタ、ジャガイモなどいずれも飼料作物か工業的に利用される作物が主で、今回また飼料作物が加わるということ。このことをつかまえて、米国のマーケットでも主食をGM作物にすることには躊躇があるという声もある。
現に昨年5月、モンサントは「ラウンドアップ・レディー小麦」の開発延期を発表した。ただし同社の説明はもちろん「主食だから」ではない。冬コムギは春コムギほどには雑草の問題はなく、「ラウンドアップ・レディー小麦」の開発は春コムギについて行ってきた。ところが、春コムギはもともと冬コムギより生産量が少ない上、北米では近年さらに作付面積が減少している。従ってGMコムギのビジネスチャンスは縮小していると判断した――いたって合理的な話だ。
しかし、米国の生産者は、必ずしもそうした事情なのだと了解しているわけではない。「小麦は聖体拝領(キリスト教の儀式でパンとブドウ酒をキリストの体として摂取すること)に用いるパンの原料と見られる作物で、そういうものにGM作物はなじまない。GMコムギはキリスト教社会である米国のマーケットでは受け容れられないだろう」――昨年、GM作物に一定の理解がある日本の農家らが、米国大使館の招きで同国のGMO生産現場を視察した。その視察報告会で、米国農家のそんな意見を聞いたという複数の日本農家の証言があった。
興味深いのは、「キリスト教社会の反応」を科学の視点から合理的でないと論破しようとする態度は、米国生産者の間にはほとんどないという点だ。米国コムギ協会のアラン・リー会長は、「我々は、バイオテクノロジーはコムギ生産の将来に明確な地位を築いていると信じているが、市場はこの新しい技術の導入への準備ができていない。今回の延期は、我々の顧客に『早まって商品化することはない』ことを確信させること」(農林水産省国際政策課「海外農業情報」より)であると述べた。米国生産者たちは、GM作物について合理的な見地から期待を寄せる一方、マーケットの反応には気を遣っている。
自然科学で割り切れなくとも、宗教への理解は持たざるを得ないという例は他にもある。2001年、インドネシアのイスラム教徒が味の素に豚の酵素が使われていたことに対して抗議し、味の素は商品の回収と謝罪を行った。また同年、米国のヒンズー教徒が、マクドナルドのフレンチフライの香り付けに牛脂が使われているとして訴訟を起こし、同社は謝罪し原材料の情報開示について見直しを行った。
消費者は、科学的に説明がつくか、経済的にメリットがあるかといった、物事を合理的に考える面の他に、歴史、文化、宗教的な考えや思いという合理的に割り切れない面も持つ。何かを買う買わないを決めるときにはこれらを総合して判断するわけだが、非合理な部分が入るから、結果はしばしば合理的でなくなる。しかし消費者のそんな非合理な面も、場合によっては受け容れることが経営上合理的な判断となる。
翻って今日の日本の場合、食物に関する禁忌は冠婚葬祭等の場面以外ではあまりはっきりしたものはない。だが、日本の消費者が食物について非合理な判断基準を持つ傾向はむしろ強い。例えば、春にタケノコやゼンマイを食べ、真夏に旬ではないウナギを求め、秋にマツタケや食用ギクに舌鼓を打ち、正月に七草を食べる。これらの理由や効用を自然科学で説明することは、さほど意味のあることではない。日本人は、宗教として体系化されていないまでも、こういった食事をすると体にいいとマジカルに信じる文化を持っているのだ。
人は食べられるものを食べ、消化し、毒素を分解し、栄養を吸収する。そのメカニズムを科学的にとらえることはよく行われる。しかし一方、人間は何かを食べたとき、物質だけでなく意味という目に見えないものも、体の中に取り込んでいる。小売りや外食の関係者が、「今の日本人は胃袋で食べるのではなく、頭で食べるのだ」と好んで語っている通りだ。こちらを科学的な目でとらえることも、食品についてのコミュニケーションを考えるときに欠かすことはできない。
合理的な米国人たちも、聖書のこの言葉は身にしみているようだ。曰く「人はパンのみにて生くるにあらず」。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。