チェーンビジネスを考える際、いやあまねくビジネスを考える際に役立つヒーローのお話をしたい。この小さな巨人の成功物語と、そのマーケティングとマネージメントは、筆者自身も繰り返し学び、実践したい手本である。
ヒーローの名をディープインパクトという。2004年から2006年に活躍した競走馬で、生涯成績14戦12勝、中央競馬クラシック三冠を無敗で達成するなど輝かしい記録を残した。しかし、ディープインパクトの本当の素晴らしさは、それら成績そのものではない。この馬がわずか3年間の競争馬生活で見せた走りのスタイル、人々に与えた感動の記憶、これに携わった人々の絆という、むしろデータとして定量化できない“コト”のまとまりにこそ、「ディープインパクト」という名の価値がある。
すなわち、ディープインパクトは“ブランディングの教科書”である。
馬を超えたブランド「ディープインパクト」
筆者は、子供がまだ幼稚園児であった1970年代の初め頃に中山競馬場の近くに住んでいた。幼稚園の運動会は一部中山競馬場を借りて行われていた。そんなこともきっかけとなって、賭け事としての競馬にはほとんど参加していないが、競馬を見て楽しむことにはかなり熱心であった。これまでに生まれては消えて行った数多くの競走馬のことを比較的よく覚えており、それぞれの馬ごとにいろいろな思い出もある。
この40年余りの中でも、最も鮮烈な記憶として心に残るのが、ディープインパクトである。以下、彼、と呼びたい。
彼はもちろん歴史に残る名馬である。しかし、心に残るというのは、結果としての強さによるだけではない。この名馬は、彼自身の才能と力だけで名馬たり得たのではない。彼を勝ち続けさせるまでには、彼の才能を見出した人、調教した人、装蹄した人、騎乗した人など、彼にかかわった人々の働きがある。彼自身とこの人々のチームワーク、絆が、「ディープインパクト」というブランドを作っていったのである。
競馬馬の世界は、よく言われるように「血統が重視される世界」であり、言い方を変えてば「血統が勝利を呼ぶ可能性が最も高い」と考えられている。
しかし、今日の日本人にはこの種の予定調和は好まれない。人々の興味が集まるのは、出自よりも個々の働きの方である。また、劣勢にある者を応援したい日本人の判官贔屓の気質から言って、好かれるのはたとえばこんな馬だ――名血統に属さず、最初のデビューは中央競馬では果たせず、“都落ち”して地方競馬でスタート。ところがそこで例外的に格別の活躍をし、その走りが認められ、実績と人気によって、ついに晴れて中央競馬界に転身を果たした――そんな馬たちも、実際に少しはいる。
たとえば、「さらばハイセイコー」という歌まで作られ今でも根強い人気があるハイセイコーや、直前まで3戦連敗していながら、引退覚悟で臨んだ最後の有馬記念で“記憶に残る勝利”を収めたオグリキャップなどは、ともに地方競馬出身だ。オグリキャップが自ら花道を飾った奇跡的な勝利は今も語り継がれているが、ちなみにこのときの騎手は武豊だった。武がこの馬に騎乗したのはたった2回だが、2戦2勝である。
しかし、地方競馬出身でこれらのようなはい上がり方の出世を果たし、かつ中央競馬でも大きな実績を残した馬は、その後出ていない。
また、このハイセイコーにしてもオグリキャップにしても、引退後種牡馬として血統を問われる段になると、現役時代とは異なり、大した実績は残せていない。
血統はよかったが評価されなかった小柄な馬
さて、ディープインパクトである。
血統で言えば、彼は非常によい血統の馬である。父サンデーサイレンスは、日本競馬界のレベルを高めることを目的に、1990年に種牡馬として輸入された。その金額16億5000万円という高額の馬であったが、期待どおり競馬界に一時代を築く多くの名馬を送り出した。母ウインドインハーヘアも競走馬として好成績を挙げていた馬であり、イギリスから繁殖牝馬として輸入された。
サンデーサイレンスは2002年に死亡する。同年生まれのディープインパクトは、その父の最後の産駒(子である馬)である。しかし、馬体が小さすぎたため、ゼロ歳馬の競り市として有名なセレクトセールに上場されたときには血統のよさの割にはよい値段が付かなかった。落札価格7000万円は、その年に上場された14頭のサンデーサイレンス産駒としては9番目で、同最高落札価格3億5000万円の5分の1の価格でしかなかった。