愛されるブランドの場合、顧客はそれにまつわるさまざまなものを部屋に充満させたり、身に付けたりしたくなるものだ。そして、究極のブランドの場合、顧客は死後もそれとともにありたいと願う。その例を紹介し、チェーン・ビジネスのブランドの話の締めくくりとする。
強いブランドを顧客は身に付けたがる
強いブランドにまつわる物語はたくさんある。それは口伝えで語られる伝説として伝わり、最近はインターネットで流布され、書籍に収載される例も多くなった。そのような、人が語ることができるストーリーを持ったブランドは強い。
強いブランドは愛好者やエヴァンジェリスト(evangelist/キリスト教の福音伝道者の意味から転じて、ブランドのよさを伝え、採用を推奨するような人。日本ではMacintoshの熱烈なファンなどについて言われるようになった)が物語を語り、周囲をそのブランドに引きこもうとする。
彼らはまた、愛好するブランドにまつわるさまざまなものを収集する。そしてそれを部屋に飾り、家の内外に飾り、さらには家全体をそれらで装飾する人もいる。自らの身体に身に付けるのは、アパレルのブランドであれば当然だが、本来身に付けるものではない自動車やIT機器などでも、ペンダントや指輪などの形で、なにかしらそのブランドの表象を身に付けようとすることはある。
さらにそれが甚だしくなると、文字通り自分の体にブランディング(刻印)するように、そのブランドの標章の刺青をさすという人も現れてくる。そうした事例はマーケティングの世界でも、ブランドの持つ強烈なパワーの例を伝える際のテキストとして使われる。私が携わってきたハーレーダビッドソンは、その“刺青されるブランド”の代表でもある。
もちろん、ブランドを自身の体に“彫る”こともめったなことではない。しかし私は、むしろその強さを上回る、人とブランドの関係に接したことが二度ほどあった。そのうちの一つを紹介して、ブランドとは最終的に何であるのかを考える材料とさせていただく。
ブランドによる人生の締めくくり/ハーレー葬
まずは、ここに示す祭壇の写真をご覧いただきたい。これは、あるハーレー・オーナーの葬儀の会場である。この方は、長崎ハーレー・フェスティバル開催の実現に当たってたいへんお世話になった恩人で、私はこの斎場に一歩足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。
祭壇の中心は、ハーレー・ブランドを象徴するするイーグルが羽根を広げた形に生花が飾られている。その両翼の先に並ぶ白菊は、長崎港の入口をまたぐ女神大橋とその周辺など、生前自身が走った思い出深い道の形を表している。さらにその先の祭壇の両脇には、自身がハーレーに乗るときに使っていた愛用のヘルメット、帽子、皮のジャケットが飾られ、これらはもちろんハーレー・ブランドの付いたものである。
このような形の祭壇は、本人が生前、棺を栄光あるブランドで覆って欲しいと願われて言い遺されたことであったという。
そして、葬祭場から出る霊柩車はアメリカ製のリンカーンであり、出棺の際には、生前所属していたハーレーの愛好家たちの同じクラブのメンバーがハーレーに乗って先導した。
死を乗り越えるブランド
古来、宗教のない国、宗教のない民族は存在しない。宗教を否定する唯物論に基づく社会主義国家(社会主義国家は共産主義社会実現の一過程であったが、ソビエト連邦を含めて共産主義社会を実現できた国家は一つもなく、いずれも社会主義段階で終わっている)の下でも、宗教は息をひそめながらも立派に生きながらえてきた。
では、人間が有史以来、どの民族でも最大のエネルギーと時間と金をかけて作り上げ、対峙してきた宗教は、つまるところ何のためであろうか。それは、自身の健康や家族の幸せを願うためであり、同時に何としても目にすることができない死後の世界を知ることでもあり、さらに死者の祟りの正体を見きわめようとし、また祟りを回避するためであり、あるいはまた、死後の自身の安寧を願ってのものであったと言えるだろう。
とりわけ、人間は死を恐れ、死後の世界を恐れるものである。その死後に対する恐れが人類最大の問題であるとすれば、その死の瞬間に、生前と死後と2つの世界をつなぐブリッジがあって、そこを穏やかに渡ることができると思うことができれば、心安らかである。
それが、それぞれの宗教の中で行われる葬儀というわけだが、まさにそのブリッジとしてハーレーを選んだのがこの方の例である。つまりこの方は、人生を託し、死を超える力として、あるいは死後にも共にあるものとして、ハーレーというブランドを選んだのだろう。
このような場面で選ばれたブランドこそ、無限の心理的な価値、最大の感性的な価値を持つ、究極のブランドではないか。
自らの葬儀で、斎場をあるブランドで満たすことを願う人は、この人以外にも、ハーレー以外にもあるだろう。ただ、私はとにかくその現場に立ち会ったことが強烈な思い出となった。
お世話になり、身近な人の葬儀であったが、実は私はこの方がここまでハーレーを愛し、ハーレー自体を人生と考えているとまでは気付かずにいたのである。そのためになおのこと、この祭壇を前にしたときの衝撃は大きく、同時に真にこれぞブランドというものの姿とその凄さを実感したのである。