理想的なブランドは、そのブランドが所有者や利用者の自己表現・自己実現につながる品質感を持っている。また、優れたブランドは、所有者や利用者の人生の記憶と結び付いて記憶されている。それが可能であれば、広く知られていなくとも、また高価格な商品ではなくとも、ブランドになり得る。
ブランドに必要なのは自己実現につながる品質
これまで述べてきたように、今日のチェーンストアのほとんどは、ブランドによる価格競争からの脱却が実現できていない。超過収益力を生み出すブランドを保有するチェーン企業はほぼ不在と見ている。それは、ブランドによって顧客、顧客接点企業(チェーンストア)、メーカー(サプライヤー)の3者間に相互の満足(Mutual Satisfaction)によって結び付く“Win-Win-Winの絆”の形成ができていないためだ。そして、その関係に必要なクオリティの表現と、それが実感されているケースは極めて少ない。
ブランドのあり方の一つの理想は、そのブランドの商品の持つクオリティが、それを持つ人の自己表現の手段になることだ。そのうちある種のものは、その商品やサービスを購入し、保有し、消費することで社会的な承認を得られる力を持つ。いわゆるステータス・シンボルである。しかし、ステータス・シンボルにならないものでも、その人をある考え方やセンスを持つ人として認めさせるのに役立つブランドはある。
「私にふさわしい」店・商品になっているか
たとえば、「ロールス・ロイス」「マイバッハ」「フェラーリ」「ベントレー」などはステータス・シンボルになる。では、それより安価な「プリウス」はどうだろうか。こちらは発売当初、ビバリーヒルズのセレブたちが乗っていると話題になったが、それは彼らが「環境に配慮している私」を表現する手段として適していると考えたためだろう。オフロード車のいくつかのブランドは、実際には環境破壊につながるイメージも持つが、「アウトドアが好きな私」を表現する手段になる。
では、チェーンストアで、顧客が「○○な私」を表現するのにふさわしい店として選んでいるというチェーンはいくつあるだろうか。見つかるだろうか。
まして、「ロールス・ロイス」「マイバッハ」「フェラーリ」「ベントレー」でスーパーやコンビニやファミリー・レストランに来店するお客はまずいないだろう。それは、それらの車が表現する“私”が、スーパーやコンビニやファミリー・レストランになじまず、大切なブランド独自の文化、伝統、歴史をぶちこわしにするからだ。渥美俊一氏が、チェーンストアの商品として高級品を扱わなかったのは購買層と購買頻度が少ないためであったが、現実には、渥美式チェーンストアとは、自己表現、自己実現に役立つブランドとは対極の世界にあるということは確認しておきたい。
今日のほとんどのチェーンストアは、ブランドではなく、あるいはブランドを保有し、提供するものでもない。どこのコンビニやスーパーで購入しても、どこのファミリー・レストランで食事をしても、品質に大きな差を感じたり購入体験が大きく異なるということがないために、価格競争を繰り広げるしかなくなっているのである。
ブランド体験で記憶される「コカ・コーラ」「マクドナルド」
日本の外食産業の場合、小刻みな価格帯ごとに競争を繰り広げていると説明されることが多い。では、そのそれぞれの価格帯ごとに、その価格でなければならないほどの価値の差が生み出されているだろうか。その部分が弱いために、たとえばファストフードとファミリー・レストランとの競合ということも起こっていると見るべきだろう。
本当は、設定する客単価のわずかな差にこだわるのであれば、その差に込めたなんらかの“こだわり”こそがブランドに結び付く何かである可能性があるだろう。しかし、多くの場合、そのような“こだわり”を表現できる店・チェーンとは、結局のところ高価格帯の店ということになっているようだ。
しかし、だからと言って“価格の安さ”がブランドの形成につながらないわけではない。たとえば「コカ・コーラ」はどうか。取り扱い商品のほとんどは硬貨1枚か2枚で買えるものばかりだが、世界的に通用するブランドになっている。価格訴求型に見られがちな「マクドナルド」も、ブランドを確立していると言って異議をとなえる向きは少ないだろう。
このように見ると、日常の利用に供するものを提供するビジネス、低価格帯の商品を扱うチェーンではブランドは形成できないと言い切れるものではない。ブランドは、価格や利用頻度だけで決まるものではないのだ。
たとえば、「コカ・コーラ」が広告で訴えるものは主に消費体験のシーンであり、価格や味のよさではない。この点、競合ブランドとは好対照を成している。また、「アメリカ軍の行くところには必ず『コカ・コーラ』がある」と言われるほど、彼らはいつでもどこでもこの商品を体験する機会を保証している。
「マクドナルド」も、世界の多くの顧客は「マクドナルド」を体験とともに記憶している。その記憶は、家族の食事だったり、初めてのデートだったりと、人生の記憶に深く結び付いている。
また、日本での展開に際して、日本マクドナルド創業者の藤田田は、「郊外ロードサイドでの展開」を主張する米国マクドナルド社のレイ・クロックの反対を押し切って、1号店を銀座、しかも三越の1階と定めて譲らなかった。それは、日本人の中央志向、銀座へのあこがれなどを十分理解してのことだった。
セルフサービスにブランド体験はあるか
このように、ブランドは消費体験や“絆”や感性的な価値に大きく左右されることに着目すると、セルフサービスを追求するビジネス・モデルからはブランドが生まれにくいのが当然だとわかる。無味乾燥な金と品物のやりとりに消費体験の記憶は形成されにくいからだ。
おそらく、この点こそが、チェーンストアでブランド構築が進まない最大の要因に違いない。外食産業でも、人の介在するサービスを画一的にするにしたがって、ブランド体験の記憶からは遠ざかっていく。
逆に、ブランド体験の記憶が鮮明であれば、たとえば上記例のようなナショナル・ブランド(NB)でなくともブランドになり得る。この点は、ブランド研究で知られる教授たちからは受け容れられないだろうが、ブランドとはその維持に圧倒的大規模展開が不可欠というものでは全くない。
たとえば、地域密着で地域住民との間にしっかりとした“絆”を構築し、そこで買わなければならないと思われているローカル・ブランドのスーパーや食堂や喫茶店などは少なくないのだ。