渥美俊一氏のチェーンストア理論は緻密に構築され、逸脱を許さない形で伝えられてきた。しかし、時代に合った商業を考えて実践することを“本式からの逸脱”と考えて恐れてはいけない。古典は古典として学び、新しい商業を独自の視点と発想で作り上げていくことが経営者の務めだ。
これまで15回にわたって、渥美俊一氏が提唱、普及に努めたチェーンストア理論に対して、私が考える問題点を挙げてきました。今回、それを総括してこのシリーズはいったん締めくくります。次回からは改めて、私が考えるチェーン・ビジネスの構築、展開の実践的なお話をしていきます。
新しい着眼と発想を伸ばすこと
まず、渥美式チェーンストア理論は、たいへん緻密に組み立てられ、非常な厳格さでその理論に忠実に従うように求めているという指摘をしました。
しかし、現実の市場は日々変化しているものであり、商業もそれに応じて形を変えていくべきものです。ですから、緻密な上に厳格な教えというものは、ブレないための指針となる半面、硬直した考え方や組織を生む危険をはらんでいます。
何かを学んだ後、実践の中で独自の視点で観察し、独自の対応で新しい道を拓いていけなければ、その人を経営者とは呼べません。ですから、どんな教えも、新しい考え方を“逸脱”として否定すべきではないのです。むしろ、その発見と着想を引き出し、伸ばすことがコンサルタントの役割であり、“教義と違うからダメ”と言い続けることではないはずです。
一方、厳格な教条主義は、一人ひとりの人間を尊重する上でも障害となります。
人間は機械よりも多くのエラーを起こすものです。それは、あるレベルまではエラーを減らすようにトレーニングするべきではありますが、かつて工業で行われたZD(Zero Defects)運動のように、際限なく無欠点を追求してはいけないのです。それは不合理にコストを増やすことである上に、不可能を可能にできないことが悪いことのように考えれば、人を傷つけることにもなっていくからです。
まず、組織やしくみは、エラーの発生を織り込んだものにしなければなりません。
その上で、一人ひとりの人間は、それぞれに気付きの目を持ち、それぞれに自由で豊かな発想ができるということに価値を認めることです。組織の中にちりばめられたそれらのセンサーと頭脳を生かさない手はないのです。
できないことを叱り続け、社員やパート・アルバイトを萎縮させるようなことは厳に慎まなければなりません。
心理的な価値を追求する時代
また、渥美式チェーンストア理論の骨格はアメリカで行われてきたこと、しかも古くから行われてきたことに学んだもので、ヨーロッパや日本に学ぶことはないとするものでした。
しかし今日、ヨーロッパでも、日本でも、その他の諸外国でも新しいビジネスは続々と生まれ、それぞれに変化を続けています。それらを無視すること、視野を広げることを否定することは、ますます“時代遅れ”を生む原因となっていきます。
われわれは、知らないものを見てしまうことを恐れずに、常に視野を広げていなければいけません。
今日の市場とそれに対応する商業は実に多様になっています。かつてのように、「安ければ売れる」というシンプルな時代ではなく、否、“安いか高いか”の視点でビジネスを評価できる時代ではなくなっています。
その市場の中で、価格レンジを頼りに業態分類を行うことは、私には全くナンセンスと見えます。
この新しい時代に不可欠なものは、顧客が受け取る、また働く人が感じる、心理的な価値です。そして、その心理的な価値は、美的センス、一人ひとりの経験・歴史、社会が持つ絆、コミュニティによって生み出されていくものです。そのしくみを理解し、現場で実感できることこそが、これからの商業を豊かに伸ばしていくのです。
古典は古典として学ぶもの
日本の商業史を振り返れば、店を10店以上出店してその後も安定して成長させる基本技術を、確かに、戦前までの日本の商業者のほとんどは持っていませんでした。ですから、昭和の前半にチェーンストアという経営手法を日本に紹介した渥美俊一氏を含む先人たちの功績は大きいものです。
その功績に感謝し、讃えつつ、私たちは新しい、変化し続ける世界の中で、次の商業を考えていかなければなりません。それをやっていく上で、古典は古典として学び、古典として尊重すればよいのです。