料理研究家の栗原はるみさんという方には、本当にいい編集者がついていらして、栗原さんの手腕もさることながら、一つひとつの本の編集者の仕事ぶりに関心しています。
お客の「ありがとう」の言葉が人生を変えた
その栗原さんの最初の大ヒット作が「ごちそうさまが、ききたくて。」という本です。タイトルがいいでしょう。私は、「ごちそうさまが聞きたい」というのは、料理をするお母さんにもお父さんにも、そしてお店で料理を作る人にも共通する願い、やる気の源泉に違いないと思っています。この本のタイトルは、そのことを書店の店頭で「そうでしょう?」と確認してくるもので、「そうそう!」と思った人はつい手にとってしまう、そういう風に出来ています。
「ごちそうさま」と並んで「ありがとう」という言葉に、同じ効果があると教えてくれたのは、茨城県鹿島町の農家、池田吉宏さんです。池田さんは20代のときに、とくに大志があったというわけではなく家業の農業を継ぎました。一度は東京で大学に通うことを考えていた若者は、たぶん最初この仕事に積極的になれなかったはずなのです。
池田さんの圃場は鹿島町の海岸沿いの砂地で、きれいな肌のサツマイモが出来ます。彼はそれをそのまま出荷するだけでなく、あるときそのいく分かを焼き芋にして売ることを思い付きます。家の前の道路に面したところに手作りの屋台を置き、そこで焼き芋を焼いて売り始めた。都会のように人通りのあるところではないので、それほどたくさんは売れなかったと思いますが、彼はそこで人生を変える体験をします。
焼き芋を買いに来た人が、品物を受け取ってお金を払った後、それだけでなく「ありがとう」という言葉も残して帰って行った。池田さんはその刹那に衝撃を受けました。少し離れた所にカメラを構えてその一部始終を撮影していたら、田舎道での別にどうということはない光景になったでしょう。でも、池田さんは全身に電気が走るような感覚でしびれていた。ひとから「ありがとう」と言ってもらえたことが、涙が出るほどうれしかった。そこから、彼は農業にのめり込んでいったと言うのです。
「ごちそうさま」「ありがとう」こうした感謝の言葉は、そのような力を持つ言葉です。お店で、お客は商品の代金を支払った上に、このような力までくれてしまう。なぜ、そんなにも親切なことをしてもらえるのでしょうか。
それはやはり、お客がお金ではあがなえない何かを、店で受け取っているからに違いないのです。
「ごちそうさま」がない国でも心は伝える
「日本には『ごちそうさま』という言葉はあるけれど、海外にはそれに当たる言葉がないのではないか」という指摘もあるでしょう。無理にでも「ごちそうさま」を英語に訳そうとすれば “I’m done.”(食べ終わった)になってしまう。これには今まで述べてきた、「ごちそうさま」に込められる想いのニュアンスはなさそうです。
ですが、たとえばアメリカ人を見ていると、お店のタイプによりますが、食べているものがおいしければ親指を立てて「グッド!」とか「アイ・ラブ・イット」と言ったり。食べ終わって帰るときも、何かしらの言葉で料理をほめたり、「サンキュー」とか何か言うでしょう。さらに、何がどうよかったかを話し始めることもあります。それにもまして、彼らは表情やジェスチャーによる表現が得意です。にっこり笑って見せたり、眉を寄せて見せたり。
おそらく、世界のどこの国・地域でも、食事をしてうれしい気持ちを表したり、感謝の意を伝えたりする言葉や方法はあるでしょう。「ごちそうさま」という言葉がある日本だけが特別なのではありません。世界のどこの国・地域でも、相手のそのような心に接することが、食事を提供する人の願い、生きがいであるに違いありません。そして、それは食事の代金という金銭とは別に受け取るものです。
チップがあっても心を伝える
「おや?」と思う方もいるでしょう。海外にはチップの習慣があります。会計のときに、代金の何%かのお金を余計に渡す。料理やサービスがとくによかった場合は、通常よりも多めに渡す。そのような習慣のある国・地域では、満足や感謝の対価は金銭で支払われ、言葉や態度では伝えられないのではないか、と思われるかもしれません。
しかし、2つの理由から、私はそうは思いません。
1つは、チップを渡す場合でも、だからと言って笑顔を見せなかったり、「おいしかった」「ありがとう」といった言葉を使わなかったりすることは、まず考えられません。彼らは、チップという金銭を渡してもなお、それとは別に心を伝えることを欠かさないでしょう。
もう1つは、チップという金銭を渡すという行為自体に、2つの側面があるということを見ておく必要があります。
まず、金銭ですから、それ自体の価値というものがあります。$20の食事をして$3を加えてチェックすれば、ウェイター/ウェイトレスはその$3分が所得になります。国・地域によって、これが制度化され、店の従業員の給与が低めに設定されている場合があります。事実上の歩合制の給与ということです。「頑張ってサービスすると、その分手取りが増える、だから所得を増やすために頑張ろう」という仕組みです。
一方、金銭にも、貨幣としての価値以外の価値や意味があります。意外に感じるかも知れませんが、それは考えてみればわかることです。チップの“相場”が食事代金の15%ぐらいという地域で、$20の食事に対して$4なり$5なりを支払えば、ウェイター/ウェイトレスは、「通常より評価してもらえた」と感じるでしょう。これは、チップという金銭を用いた形での言語表現と言えます。
このようなわけで、たとえチップの習慣がある国・地域でも、「ごちそうさま」に当たる言葉がない国・地域でも、食事に対してお客が店側に渡すものは、“金銭”と“金銭以外の何か”の2つがあると考えるのです。
この“金銭以外の何か”を理解し、こだわることに、店の価値を上げて持続的な繁盛を可能にする秘密があるのです。