家宝にさえなった“量産品”
コンプラ瓶が江戸時代に日本酒と醤油の輸出に限って使われていた“日本からの輸出限定瓶”だったのに対し、ケルデル瓶は外から日本に持ち込まれる瓶である。また、用途はジュネバに限らず、ロンドン・ドライジンやバーボン、ウイスキー等の輸送にも使われていた。
当時としては近代的な大量生産システムで作られたケルデル瓶だったが、日本では“量産品”としてはとらえられていなかった。そもそもが「南蛮渡来」と言えばそれだけで貴重な高級品だった時代である。戦後に同じ意味を現わす「舶来」という言葉が使われたが、「南蛮渡来」はそれよりも遙かにプレミアム感が高かった。そうした時代のものだから、たかが空き瓶という扱いではない。
加えて、ジュネバは多くても年に1~2度しか荷が届かないし、第63回でも述べたように、ヘンドリック・ヅーフがカピタン(商館長)だった時代には2年も途絶えたことがあったという事情もある。飲んでしまえばなくなる中身(ジュネバ)はともかく、この四角い武骨な形をしたケルデル瓶は「貴重な南蛮渡来のガラス瓶」として珍重されていた。
今日のように流通が発達している時代ならばともかく、幕府が認めた業者のみが特権的に交易を許されていた時代だから、リサイクルで使いまわしていたわけではない。なんと、家紋入りの桐箱に収められて家宝とされていた“空き瓶”さえ現存している。
ケルデル瓶には通常ジュネバを製造した酒造会社名とシーダム(SHIEDAM/ジュネバの産地名)がオランダ語で浮き彫りにされているだけで他にラベルなどはないのだが、江戸時代の日本人はこの濃緑褐色のガラス瓶の美しさに感じ入ったようだ。空き瓶に日本の職人がエナメルで絵付けしたものも出土することがあるというから、一輪差しの花瓶にでも使われていたのだろう。
今回、貴重なケルデル瓶の写真を提供してくれた長崎市歴史民俗資料館の学芸員の方の話によれば、長崎の野方崎という地方では、今でもケルデル瓶に酒を詰めたものを結納の際に用いるという。
洋酒瓶で店を作った飯島栄助
舶来の洋酒瓶を珍重したのは長崎の人ばかりではなかったことを証明するために、洋酒の世界では無名に近い一人の江戸商人に登場してもらおう。
彼の名を飯島栄助という。近江は彦根藩の酒造家である鹿島屋に生まれた彼は、19歳の頃から修業のために酒屋を転々としていたが、「とある商売」で短期間に巨額の利益を得ている。その商売というのが古徳利商、なんと酒の空き瓶を売る仕事だった。
そう聞くと、今の廃品回収のようなものを我々は想像しがちだが、今日空き缶や空き瓶を集めて売ってもそう儲かるものではないと聞く。ところが、飯島の「とある商売」の利幅は大きかったようだ。彼が古徳利商を始めた翌年の慶応2(1866)年には、洋酒瓶と共に扱っていた洋酒ラベルとあわせて得た富を元手に、26歳の若さで横浜元町に洋酒の一杯売りの店を始めている。
彼の店の仔細については残念ながら伝わっていないのだが、彼が歓楽畑や観光畑の出身ではなく、酒屋の出身であることから、銘酒屋(※1)の類(たぐい)のいかがわしい商売ではなく、本物の舶来洋酒を売り物にする店だったと想像される。なにしろ、飯島は半年前後の酒徳利商での経験を通じて舶来洋酒を大量に扱う店やホテルで仕入れのルートを熟知していたはずだからだ。
この一杯売りの店も繁盛したらしく、さらに4年後の明治3(1870)年には外国人向けの荒物雑貨店を開業している。飯島は明治38(1905)年に67歳で亡くなっているが、彼が記録を残していればさぞかし興味深い話があったに違いない。いずれにせよ、街場のバー(洋酒肆)を日本人として始めた草分け的な一人が、洋酒の空き瓶とラベル売りから身を立てたことは、洋酒史の小さなエピソードとして残しておくべきだと思う。
瓶とラベルのデザインは偽造への対抗策
またいささか話はそれるが、筆者は以前、19世紀の精緻を尽くした多色刷りのアブサンのラベルを見て驚いたことがある。さまざまな色の細い線を使った華やかさを、まだコンピュータグラフィクスもカラー写真もなかった江戸時代の人が目の当たりにしたときの驚きようは、筆者の場合を遙かに超えていたことは疑いない。
文久3(1863)年、日本と通商条約を締結するために来日したスイス貴族院議員エメエ(エーメ)・アンペールは、日本人の洋酒瓶とラベルの珍重ぶりを、「瀬戸内海の島民達は喜んで鶏を空き瓶と交換する」「アブサンやリキュールのレッテル瓶が瓶の倍の値段で売られていた」と驚きを込めて記録に書き留めている。
戦前の洋酒瓶はジェット(ミントリキュール)の他にもスコッチのグランマクニッシ、ディンプル(ピンチ)など変わった形のものが多い。実は、これは単に美しさを求めたものというわけではない。以前「赤くなかった“赤富士”」で藤原カムイさんに描いていただいたマルティニ・エ・ロッシのベルモットのラベルの場合もそうなのだが、こうしたものが作られた背景には洋の東西を問わずに跋扈する偽造洋酒との区別と言う切実な問題があった。現在でも海外で購入するマッカランとバランタインには偽物が多いと聞くので、読者諸兄にはご注意いただきたい。
話が脇道に入ったついでにもう一つ洋酒瓶のエピソードをお話しすると、戦前のバーテンダーが遊郭に行くときは洋酒の空き瓶を持参して行くと、無料で遊べるばかりか遊女からお小遣いまで貰って帰ってきたという嘘のような実話がある。
戦前の洋酒瓶についての話はこの辺でそろそろ終わりにして、次回からは「ジントニック」の話に戻ろう。まず、戦前昭和のロンドン・ドライジンの話から進めたい。
※1銘酒屋:江戸時代の射的を名目にした風俗店(矢場)を、明治時代に入って洋酒酒場の体裁に替えた風俗店。酒場風のカウンターに一応何本かの洋酒の瓶が置いてあるが、客の目的は飲食ではない。カウンターの客席側に女性が数人待機しており、来店した男性と商談が成立すると別室に案内される。戦前の東京では「曖昧茶屋」、横浜では踊りの名前からとった「チョンキナ屋」と呼ばれることも多かった。最盛期だった明治30(1897)年頃には東京都内に76軒の銘酒屋があった。
※2:この絵は酒場での外人水兵と日本人店員、後から来た水兵の同僚を描いたもので、彼らが交わしたコミカルなやり取りを「横濱絵」と呼ばれる浮世絵で貞秀が説明している。さらに説明したいところだが、この店は日本に出来た最も古い洋酒肆の一つであり、そこに揃えられていた酒や当時の横濱居留地のある意味で“名所”だったこの店の周辺事情に関する詳しい説明はまた別の機会に譲りたい。
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ジュネバのオーデ(第60回参照)は入手が困難になりつつある。写真は現在でも販売されている数少ないジュネバのオーデ。飲んでみると、確かに甘さは感じるが、ジュニパーは飲みこんだ後の余韻に感じる程度で、のど越しも悪くない。下手をするとロンドン・ドライジンよりストレートで飲みやすい上質のスピリッツだった。筆者のオーデのイメージは「ジュニパーがガンガン効いていて、したたかに甘い酒」というあまりよろしからぬものだったが、筆者が以前口にしたオーデがよくなかったのか、このオーデが昔の製法を改良したものかはわからない。価格は2000円前後で、業務用酒販店で手に入る。