立石斧次郎はトミーと呼ばれて一躍人気者になった。新聞は彼のお茶目な様子を書き立て、人々は正使も副使もそっちのけで一目彼を見ようと集まった。この“トミー旋風”が、「ジャパニーズ・カクテル」が創案される下地となるのである。
「あの有名なトミー」立石斧次郎
街道に集まった群衆に笑顔を振りまく立石斧次郎。彼が片言の英語を解すると知るや、人々は正使や副使そっちのけで斧次郎に注目する。サンフランシスコ入港時は目立たぬ従者の1人に過ぎなかった彼は、ワシントンからボルチモアに到着したころには、幼名の「為八」(ためはち)に由来すると言われる「トミー」の愛称と共に有名になり、ワシントンで無事に批准文書を交換し終えてフィラデルフィアに向かう頃にはニューヨーク・タイムズに「あの有名なトミー」と書かれるほどの人気ぶりだった。
正式な通詞でさえ「(英語は)うまいとは言い難い」と現地の新聞に酷評される中で、1858年に幕府が長崎に開設した英語伝習所に通っていた彼の英語は感心された。ただ、アメリカ中に“トミー・ブーム”を巻き起こした理由の多くは、彼の性格に起因していた。
人の心をつかむお茶目な少年
そもそも、初めての外交使節派遣でとかく慎重策と安全策を取りたがる幕府は、当初、英語の実力も定かではない斧次郎の度重なる懇願に耳を傾けようとしなかった。彼より高い役職でアメリカ行きを志願する者も多かったため、実績のない斧次郎の渡米もいっときは不可能かと思われていたのだが、それを見かねたポーハタン号のアメリカ軍大尉が彼を通訳として雇ってもいいと申し出た。この出来事は、初対面の人間に好感を持たれる彼の特性を示しているだろう。1860年5月1日付けのNewYork Daily Tribuneには「日本人一行の態度は(中略)サーカスに連れて行ってやると父親に言われた子供のようだった」という記述があるが、彼の喜びようもこれに近かったに違いない。加えて、彼は少年特有の“茶目っ気”が人一倍強く、在米中のエピソードには事欠かない。
汽車に乗ると客室を飛び出して運転席に行く。気球の見学イベントでは見学の列から離れて、乗ってみたいとねだって周囲を困らせる。「まかり間違って気球がどこかに飛んでいき、日本と条約を結んでいない国にでも着陸したら大変だ」という国会答弁のような上司の制止と対比するまでもなく、彼のお茶目ぶりはアメリカ国民に人気だった。
メディアがそれを取り上げてさらにブームが加速する。ニューヨークでは、アメリカ時計協会から使節一行に対して「日本からいらした客人のために」と高価な金時計が3つ贈られた。その一つは日本の将軍へ、いま一つは正使新見豊前守へというものであったが、もう一つは副使・村垣淡路守でも目付・小栗豊後守でもなく、序列では一行72人のほぼ末席の斧次郎へというものであった。この将軍級に扱われた珍事さえ、斧次郎の人気を示す例の一つでしかない。
ジャポニスム以前の知られざるニッポン・ブーム
さて、ジャパニーズ・カクテルである。ここまでで、あらかたの事前説明は終えた。
時間軸を後代から遡っていくと、戦前のバーテンダーでさえ由来を知らなかったジャパニーズ・カクテルが欧米に普及したのは、サヴォイの軽歌劇「ミカド」の人気があったからであり、その前にジャポニスムのブームがあった。ただし、そのいずれもジャパニーズ・カクテル誕生には寄与していない。
ジャポニスムの前にあった知られざる“ニッポン・ブーム”、すなわち万延元(1860)年の日米修好通商条約批准使節団の末席に加わった立石斧次郎教之、通称トミーの人気が、全米を席巻していたところまでを御理解いただけたことと思う。ここまで1カ月以上に渡って時代を遡る説明に付き合っていただいた読者諸氏に感謝しながら、次回は全米を席巻したトミー・ブームとジャパニーズ・カクテルの接点という、本稿の最も重要なカギについて解説していきたい。