アメリカ、ヴァレーホから来て、日本で初めてプロのバーテンディングを行ったバーテンダー。しかし彼は、なぜ経営者の異なる2つのホテルでかけもち営業を行ったのか。それを解くカギは、当時の通信事情と、もう一人のイギリス人が握っていた。
海の彼方のホテルへの招待
さて、ヴァレーホから来たバーテンダーが、なぜ支配人が変わったインターナショナル・ホテルで最初に仕事をしなければならなかったのか、筆者の仮説は以下のようになる。
最初にホテルのバーでカクテルを出そうと考えたのは、インターナショナル・ホテル支配人だった当時のカーティスだった。そのために彼は、カクテルを調製できる“本物のバーテンダー”を探すことを、アメリカに行く信頼できる人物に依頼したのではないか、というのがこの仮説の前提だ。
ところが、カーティスはインターナショナル・ホテルの経営から手を引いてジャパン・ホテルに行くことになり、バーテンダーを募集した“行為の主体”が(a)インターナショナル・ホテルと(b)カーティス本人に分かれてしまった。国際電話や電子メールで気軽にやり取りできる時代ではない。簡単な連絡だけでも2週間もかかるアメリカにはそのニュースは伝わっていない。
そして、カーティスからの引継ぎで、彼がカクテル導入を考えていたことを知ったパーヴィスは、「そのくらい自分でできる」と考えて作って見せたのではないか。それが、引継ぎ直後の7月の英字紙イラストだとすると、話の筋が見えてくる。
結局、はかばかしい売り上げ増も見られないままパーヴィスのカクテルも立ち消えになりかかった2カ月後、インターナショナル・ホテルに「ここの支配人のカーティスに会いたいのですが」とバー道具一式を抱えたヴァレーホ・ジムがやって来るわけだ。
これに資金的な動きを加味すると、さらにこの仮説が“掛け持ち営業”の理由に現実味を与えてくる。ヴァレーホからはるばるやってきたバーテンダーの視点で見てみよう。
ヴァレーホは、アメリカ西海岸、それもサンフランシスコのゴールデンゲート海峡を過ぎてサンパブロ湾の奥へ進んだところにある小さな町だ。そこで働くバーテンダーのところへ、ある日会ったこともない人間が突然やって来て「ジャパンという国にバーテンダーを探しているホテルがある」と言われたとしたら、どうだろう。事情のわからない謎の国に2週間近くかけて出かけるにはよほどの“動機”が必要だし、庶民には高根の花だった海外旅行の旅費も前渡しでなければならない。
居留地の“社内報”
つまり、カーティスが呼び寄せたと考えた場合、インターナショナル・ホテル支配人であった彼は、少なからぬ“先行投資”をホテルの予算から出していることは、まず間違いない。
だとすれば、ヴァレーホ・ジョーを迎えたときに、パーヴィスが口にしたと考えられる「彼の招聘費用を出したのはインターナショナル・ホテルだ」という言い分が、「彼を招いたのは私だ」というカーティスの言い分と同格の説得力を持つことになる。
その結果として、カーティスとパーヴィスは仲たがいはせず、ある意味極めて日本的とも言える“足して2で割る”式の解決方法を採り、いったん処遇が宙に浮いてしまったバーテンダー氏を両ホテルで交互に雇う形式をとったのではないか。
その妥協の結果が、あの不思議な3枚目のイラストになったのではないか。
うんうん唸りながら頭を悩ませ、そんな仮説に筆者がどうにかたどり着いたときには本稿締切りの日の朝を迎えていた。
こういう疑問が出てくるのには、当時居留地で発行されていた英字紙特有の事情もある。万延元(1860)年に23人だった横浜居留地に住む外国人は、慶応3(1867)年には1130名に増えたものの、最盛期でも2000人前後しかいなかった。その程度の人数の居留地在住外国人向けだったために、横浜の英字紙・仏字紙は、我々が思い浮かべる一般紙よりはむしろ“学級新聞”とか“社内報”に近く、閉ざされたコミュニティー外の誰が読んでもわかるようには書かれていない。
問題の記事も、せっかくバーテンダーの記述があるにもかかわらず、言葉遊びを楽しんでいるようなニュアンスで書かれている上に、100年以上の時間を経ているから、筆者が乏しい想像力で埋めようと頑張っても実態の把握はさらに困難になっていく。
どうにか自分なりの結論が出せた今では、そんな“壁”さえもいささか懐かしいのだが。