日本で初めてカクテルが提供された様子は、当時の英字紙が伝えている。このバーテンダー、ヴァレーホ・ジョーを描いた漫画を見ると、驚くべきことに、日本初のカクテルは、フレア・バーテンディングで提供されたことがわかる。ただ、このバーテンダーを巡っては、一つ解けない謎が残る。
新大陸発の新しい飲み物の伝道者
明治7(1874)年アメリカ・サンフランシスコに近いヴァレーホ(Vallejo)から横浜へやってきたバーテンダーを描いた漫画が、当時の英字紙に掲載されている。この漫画には、「Presidentess charlottes」「Mint Juleps」「Gobblers」の文字が見える。バーテンダーの衣装はシルクハットにジャケットというアメリカ合衆国を擬人化した「アンクル・サム」風だ。このバーテンダーの派手な衣装は伊達や酔狂ではない。カクテルが世界に紹介された慶応3(1867)年のパリ万博以降、カクテルを海外(米国以外)で供する際に、アメリカ(新世界)発の新しい飲み物であることをアピールするためにしばしば用いられたスタイルだ。J.トーマスのカクテルブックに精密な考証を加えて話題となった「IMBIBE!」にも、1874年の英字紙に掲載された同様の衣装をまとったバーテンダーのイラストが紹介されている。
これらに描かれたミキシングの手法は、J.トーマスがブルー・ブレーサーを作っている有名なイラストとも共通しているのだが、読者の方々は、このようなパフォーマンスをどこかでご覧になった記憶があるのではないだろうか。そう、このイラストは最近日本でもカクテルの展示会などで行われる「フレア・バーテンディング」の原型なのだ。
筆者が最初にこのイラストを見たときは、細かい手書き文字が判別できないほど小さかったこともあって、「軽業的」、もっと直截に言えば「人目を引くためのパフォーマンス」というイメージしか持たず、まさか横浜に上陸したプロのバーテンダーが紹介した日本初の本場のカクテルが、実は“フレア”で作られていたとは想像もしなかった。
しかし、バーテンダーの祖であるJ.トーマスの事績が近年明らかになり、19世紀のカクテルの実相が浮かび上がってくるにつけ、このイラストの中で指し示されている特徴と符合する点がいくつも出てきたとき、それは驚きに変わっていった。
アメリカ・ヴァレーホから来たバーテンダーの謎
カクテルが提供された日付や場所と実演の内容、バーテンダーの出身地や供されたカクテルまでわかっているにもかかわらず、このイラストはまだ謎のすべてを明るみにさらけ出しているわけではない。むしろ、謎がさらに謎を呼んでおり、筆者はこの原稿を書き上げるギリギリまで横浜開港資料館でリサーチを続けながら、なおいくつか謎を解けないままに原稿締め切りの日を迎えた。
謎の最たるものは、このアメリカ人バーテンダーの名前だ。この英字紙には、インターナショナル・ホテルのバーテンダーは「ヴァレーホ・ジョー」とある。ところが、翌日にジャパン・ホテル(居留地四十四番)で実演したバーテンダーは「ヴァレーホ・ジム」となっているのだ。しかし、それらのイラストを見比べると同一人物の可能性が高い。名前のうち「ヴァレーホ」というのは、バーテンダーがアメリカ西海岸のヴァレーホから来たことが記事にあるから、日本で言えば「東京太郎」とか「横浜一郎」のような「あだ名」というか通称と推察される。では「ジョー」と「ジム」は同一人物なのか、双子なのか。同一人物だとしたら、経営者が異なる2つのホテルを来日早々掛け持ちで仕事することは可能だったのか?
この謎を解き明かすためのカギを、筆者は当時の通信事情と、ある外国人に求めた。
通信事情とは、グァム―東京間に電信ケーブルが敷設されてアメリカと日本がつながったのは明治39(1906)年であり、このバーテンダーが来日した当時は、日本とサンフランシスコとの連絡にはどんなに急いでも片道2週間かかっていたということだ。
ある外国人とは、もう一人のイギリス人実業家だ。彼の名前をカーティス(Curtis William)という。
後に「鎌倉ハム」を立ち上げた日本人にハムやベーコンの製法を教えたという伝承が残っている彼は、パーヴィスにバトンタッチするまではインターナショナル・ホテルの支配人であった。しかし、その後すぐにジャパン・ホテルの支配人となっている。
両ホテルに関連があるカーティスが、何らかの形で横浜へのカクテル導入に寄与していたことは疑いない。しかし、筆者が最後の最後まで突き当たっていた“壁”は、ヴァレーホから来たバーテンダーが、なぜ支配人が変わったインターナショナル・ホテルで最初に仕事をしなければならなかったのか、ということだった。
さんざん悩んだ末に筆者が立てた仮説を次回ご披露する。