VII 横浜・カクテルことはじめ(3)明治7年横浜のブルー・ブレイザー

パーヴィス
英字紙に描かれたカクテル調製に苦戦中のパーヴィス。彼がホテルの支配人になる半年前の漫画

パーヴィス
英字紙に描かれたカクテル調製に苦戦中のパーヴィス。彼がホテルの支配人になる半年前の漫画
パーヴィス
オールド・トム、ジュネバ、シャンパン、バス・ペールエール、アブサンなどが描かれており、彼が酒に詳しかったことがしのばれる

パーヴィスはまず、自らカクテルの調製に乗り出した。彼を描いた英字紙の漫画とレシピを見ると、パーヴィスが取り組んだカクテルがブルー・ブレイザーであったことがわかる。しかし、結局それはうまく行かない。しかし、彼が断念した直後、アメリカからプロのバーテンダーが来日する。

J.トーマスのレシピを持っていたパーヴィス

 インターナショナル・ホテルのパーヴィスは最初、カクテルを自分で調製しようと試みるが、もともとイギリス海軍の退役大佐という軍人上がりで、来日したのも横浜港の船舶管理のためだったというパーヴィスは、酒には詳しいものの器用ではなかったようで、カクテル調製に苦労している様子を描いた漫画が当時の英字新聞に掲載されている(図参照)。

 彼が作ろうとしたのは、J.トーマスのカクテルブック()に書かれていた黎明期のカクテルで、ベースとなるスピリッツ(彼を描いた別のイラストにはトムジンが描かれている)に砂糖とビタースを加えたもので、イラストにもアンゴスチュラ・ビタースが描かれている。つまり、J.トーマスが世界初のカクテルブックを出版(1862)してからわずか10年余りで、日本に彼のカクテル「ブルー・ブレイザー」のミキシング法と基本的なレシピが紹介されていたことになる。

 欧米でカクテルブックの出版ブームが起こるのは1880年代以降のことだが、パーヴィスは現在ではバーテンダーたちの垂涎の的となっているトーマスの「How to Mix The drinks」を何らかの方法で入手していたか、あるいはカクテルに詳しい客から製法を聞いていたものと推察される。

 パーヴィスが慣れぬ手つきでカクテルをブルー・ブレイザー式に攪拌している(本物のブルー・ブレイザーは火を使う)イラストのカウンター手前の札の文字が読めるだろうか。これは後日書く予定の氷の話と関連するのだが、「Ice Extra」(氷は別料金)の表示があることを覚えておいていただきたい。描かれたのは、バーテンダーの方々が氷と言えば連想する「カール・フォン・リンデによる製氷開始」(1876)の2年前、季節は6月である。

アメリカからやって来たバーテンダー

 結局、明治7年7月にカクテルをインターナショナル・ホテルの売り物にしようとしたパーヴィスは、自らの手で調製することを断念するのだが、我が国初のカクテル導入の歴史は意外な展開を見せる。パーヴィスの苦戦ぶりが英字紙に報じられた2カ月後、なんとアメリカ・サンフランシスコに近いヴァレーホ(Vallejo)から本物のバーテンダーがやってきたのである。1874年9月3日のことだ。

 このことが画期的なのは、やってきたプロのバーテンダーのパフォーマンスや衣装や出していたカクテル以上に、バーテンディングという技術を認めたのが、パーヴィスという日本在住のイギリス人だったことだ。カクテルが、ワイン大国として知られていたフランス等で「冷却材(氷)を入れて攪拌する、野蛮な新大陸の飲み物」とする風潮がまだ欧州に根強かった時代に、である。

 日本ではつい昨年、5月13日がカクテルの日と決められた。1806年にアメリカの新聞「The Balance and Columbian Repositoly」にカクテルの定義が掲載された日を選んだそうだが、もしこのイラストの分析がもう数年早ければ、横浜のインターナショナル・ホテルでプロのバーテンダーが最初のカクテルを提供した9月3日が、日本のカクテルの日になっていたかもしれない。

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。