1860年に横浜に登場したフフナーゲル・ホテルは、木造一階建ての日本建築だった。外国人には不評だったホテルだが、ここには恐らく日本で最初と考えられるバーがあった。ここに欧米の著名人が集まった理由の一つは、当時の日本の治安の悪さだった。
漁師町の民宿ヨコハマ・ホテル
日本で戦前のバーや洋酒の話を語るとき、どうしても外せない場所がある。日米修好通商条約以降、に箱館(函館)・神戸・長崎・新潟とともに外国人居留地と定められた横濱(横浜)だ。とくに、同じ外国人居留地の中でも、横浜は江戸・東京の玄関口だったこともあって、とりわけ欧米文化があふれた。それまで一部の蘭学者と幕府の高官を除けば、天竺(インド)の向こうは「小人国」や「大人国」、さらには「首長族」の国々があってと、夜店のお化け屋敷顔負けの得体のしれない世界と考えていた江戸時代の日本人を仰天させた。
19世紀後半の日本を「洋酒文化」という視点で見る場合、最初に出てくる名前は万延元(1860)年に誕生したフフナーゲル・ホテル(ヨコハマ・ホテル)になる。
ホテルと言っても、オープン当時のそれは一階建てで客室数わずか8室に過ぎなかった。このホテルに投宿したプロシア艦隊旗艦アルコナ号で来日したザクセン商工会議所全権シュピースは「窓は1つもなく、また同様にストーブもなかった。(中略)家具と言えば、一種のベッドとがっちりとしたテーブル、それと2脚の竹製の椅子があるだけであった」(「横浜外国人居留地ホテル史」沢護著)と酷評しているから、ホテルと言うより“ひなびた漁師町の民宿”に近かったと言えるだろう。
実際に当時描かれたヨコハマ・ホテルを見ると、木の柵で囲まれていることを除けば“峠の茶屋”とも見まがう当時の典型的な日本家屋であることに驚く。考えてみれば、日本家屋しか作ったことのない大工と資材しかなかったのだから、華麗なコロニアル様式のホテルが無理なのはわかる。
いずれにせよ、最初のヨコハマ・ホテルは、当時の外国人の目には「殺風景」としか映っていなかった。
日本最古のバーテンダー、マコーリー
この木賃宿、もとい殺風景なホテルが洋酒史上後世に名を留めた理由の一つが、部屋にこもりがちな外人客のためにしつらえられた、ビリヤード台を1台置いた小さなバーだった。
日本初と思われるこのバーを仕切っていたのはイギリス国籍の黒人で、名前をマコーリー(James B. Macauley)という。彼こそは名前が判明している日本最古のバーテンダーなのだが、それは今日的な感覚で我々がイメージする「洋酒の世界への案内人」としてのバーテンダーではなく、原語通りのバー(酒場)のテンダー(管理人)、つまり西部劇に出てくる酒場の主(あるじ)に近い存在だったらしい。「男爵」というニックネームを持つ彼とこの酒場に言及している文献はいくつか残っているのだが、彼がカクテルを作っていたという記述は見当たらない。
また、どんな酒を置いていたかも、筆者が調べ始めた当初はわからなかったのだが、その後、これはマコーリーが居留地内にロイヤル・ブリティッシュ・ホテルを開業してフフナーゲルを辞めた後のことになるが、1864年と1865年の英字新聞で、横浜港で陸揚げされた洋酒の銘柄が見つかった。そのことから、「ヘネシー」や「マーテル」などのブランデーを中心に「Wheat Sheaf」を含むウイスキーと、ジュネバや「オールド・トム」を含む数種のジン、「シャルトリューズ」やマラスキーノ、キュラソーやミントのリキュールを置いていたと推察される。
現代のバーと比較するといささか心もとない品揃えだが、他に娯楽のない黎明期の居留地では人気スポットで、当時の有名人がこのバーに集まった。日記で有名なイギリス人アーネスト・サトウ、歴史教科書にも出てくるドイツ人シーボルト、ロシア秘密警察の手を逃れてきた無政府主義者バクーニンといった、来日の目的も素性もさまざまな外国人がこのバーに来ていたことをさまざまな資料が明らかにしている。どうして彼らはここのバーに足しげく通っていたのだろう。
夜な夜な銃声の響くバー
それは彼らが夜になると飲むことしか考えていなかったからだ、などと言えば日本史の先生や革命家を信奉する方々に叱られそうだが、その批判を受ける前に筆者としては当時の時代背景を説明しなければならない。
「風雲、急を告げる」――坂本竜馬や新選組が登場する紙芝居の幕末物みたいな口上になってしまうが、アメリカと条約を締結した直後の日本は、まさにこの言葉を地で行く乱世ぶりだった。
オランダ人フフナーゲルがこのホテルを開業した1860年には、二人のオランダ人船長が横浜の街を散策中に攘夷派と見られる武士に切りかかられている。翌年7月には、江戸でイギリス公使館に当てられた高輪東禅寺に水戸藩藩士十数人が乱入するという事件も起こった。幕府に正式に認められたはずの在外公館でさえ安住の場所ではなく、外国人は枕元に銃を置かねばならないほどだった。
昼間でも前後に警護の武士が付いて歩かねばならないほど危険な状態だったため、外国人が自由に歩ける範囲を開港場から10里(約39㎞)以内に制限する規定をわざわざ日米修好通商条約の本文(第7条)に定めていたから、夜に出歩くことは罰ゲームどころの冗談ですむ話ではなかったのである。
そんな未知の国に、純粋な知的好奇心を抱いて、あるいは自分の技術を高値で売るために来たものがいる。日本にキリスト教を広めるために来た者がいるかと思えば、未開の地で一山当てようと食い詰めた男がやってくる。「極東に最後に残された神秘の国」日本に、こうしてさまざまな動機を秘めた男たちが、不便な船旅の末に集まってきた。ぽつりぽつりと松明の明かりがともるだけの横濱の船着き場に小舟に乗り換えて岸に辿りついても、観光案内書があるわけではない。一人では居留地を歩くこともままならず、何かの用事で狭い居留地の外に出ても、腰に刀を帯びたサムライに睨まれる状況では、夜ともなればマコーリーが待つバーくらいしか行くところがない、というのが開国間もない1860年代前半の状況だった。
狭い居留地の、湿気がこもる窓のない部屋に押し込められた彼らの鬱屈した感情は、マコーリーのバーで深夜にしばしば聞こえる銃声で発散されていた。哀れな標的となった掛け時計は銃痕で穴だらけになっていたと、あのシーボルトと共に来日した息子が語っている。
そんな横浜で、カクテルが、ある「特別な」手法で供されようになったのは1874(明治7)年のこととなる。