日本に洋酒文化が定着していったプロセスを読み解く第2シリーズ。重要情報を打電してほどなく、ゾルゲとそのグループは特高警察に一斉検挙される。彼がいた場所と、謎のスコッチ「カメオ」を探して、筆者は西麻布に足を運んだ。
遠いモスクワ。迫る包囲網
海を隔てた極東の国、日本から生命を削る思いで送られた「ドイツ軍のソ連侵攻近し」の電文は黙殺された。
独ソ国境が苦もなく破られ、ヒトラー自慢の機甲師団がウクライナの穀倉地帯を驀進するニュースがドイツ本国から大使館にもたらされたとき、ゾルゲは無線技士クラウゼンにスターリンの無策を泣いて訴えたという。
モスクワとゾルゲの間に吹いた隙間風が、ヴィースバーデン局から送信された「貴下の情報に感謝す」という謝罪のニュアンスをこめた返電で修復された後、ゾルゲはロシアに残した妻カーチャの元に帰る許可の申請を行っている。ブーケリッチは日本の名家の女性と挙式を挙げて日本への定住を考えていた。
ゾルゲと同志たちの活動は終わろうとしていたが、それは彼らが望む形で、ではなかった。
1935年の袴田里見逮捕で日本共産党は党中央委員会が壊滅した。1939年にはクートベ(КУТВ/東方勤労者共産大学。ソ連の地下活動家養成機関)出身の酒井定吉、加藤四海らが共産党再建運動を起こしたものの、わずか半年で警察に一斉検挙されている。
1941年には共産党の動きは特高に細胞(活動家)単位で完全に把握されて、宮城与徳が所属していたアメリカ共産党の日本人党員にも捜査の手が及ぶほどになり、許可を得ていない怪電波の発信先が麻布であることも特定されていた。1933年以来、自らの強運を誇示するかのように踊りを申し込んでくるゾルゲの挑発的な誘いを拒んできたワルキューレ(死神)は、彼を自らの強き腕に抱くタイミングを図り始めていた。
ゾルゲが「情報によれば、日本軍は少なくとも今年(1941年)はシベリアで戦端を開かないことを決定した模様」と極秘情報をヴィースバーデン局に送り、これを受けて東に疎開する工場設備と入れ違いで日本軍の侵攻に備えて極東に展開していたソ連軍部隊が激戦が続くレニングラード方面に続々と送られていたころ、すでに特高警察による彼らスパイ・グループへの包囲網は危険なほどに狭まっていた。
カクテルの出会い、カクテルの別れ
ゾルゲが、一度は自宅に誘いながら彼を拒んだ石井花子(アグネス)を、二度目に麻布永坂町の自宅に招き入れたのは彼の誕生日でもある1935年10月4日だった。彼は、2階の書斎で覚悟を決めて待つ花子には甘い酒を、自身のためにはハイボールを作って階段を上って来た――そう石井は戦後に出版した回想録で語っている。その後にカクテルの記述が出てくるのは1941年10月4日。ゾルゲが石井と会ってから六年目の記念日と自分の誕生日を銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」で祝ったときだった。それが、彼女がゾルゲと会う最後の日になることを、二人はまだ知らない。
1941年10月18日のゾルゲ逮捕とそれ以降の顚末は、特高とゾルゲ、同志らの息詰まる攻防を追うゾルゲ関連書籍ではクライマックスの部分だが、戦前洋酒文化をゾルゲというキーワードで俯瞰してきた本稿は、その使命を終えつつある。
筆者も調べていて気が付いたことだが、ゾルゲと石井の関係は、カクテル(石井証言によればハイボール)で始まり、カクテル(当時ローマイヤのバーテンダーだった和田稲吉の証言によればショウレーモーレー、現在でいうスプリッツァー)で終わっている。そのことを当の本人たちも、たぶん気付いていなかったに違いない。
戦後、ソ連がゾルゲの功績を公式に認めてからは救国の英雄(ソ連)、大使との仲を利用して機密を漏らした売国奴(ドイツ)、上層部でも知り得なかった御前会議の内容まで把握していた凄腕のスパイ(戦後日本)、反戦のために一命を賭した平和主義者(共産党)……と評価は現在でも分かれている。たぶん何十年たっても彼の評価は定まらないに違いない。
ゾルゲ居住地跡の今
それから70年後の2011年11月のある日。筆者は思い立って昭和12(1937)年に麻布永坂町30番地だった地域を訪ねてみた。
この界隈は戦前から区割りが複雑に入り組んでおり、ゾルゲ関連書籍やブログの中には狸穴町30番地の鼠坂あたりをゾルゲの住所と混同しているケースもあるが、昭和12年の地図と比較すると彼が住んでいたのは現在の麻布十番1丁目2番地あたりだったことがわかる。
特別高等警察外事課の大橋秀雄警部がゾルゲ逮捕に向かった鳥居坂警察署跡は見上げるような高層マンションになっており、その隣のタレント事務所では十代の少年たちが、これからオーディションでもあるのか、窓に向かってそろいのステップを踏んでいた。ゾルゲの家があった、そこから歩いて2分ほどの場所は区画整理で現在は国道415号線になっている。高架の高速道路で囲まれた周囲の情景に、当時を偲ぶ痕跡は残されていない。お祭りでもあるのか、子供たちの歓声で賑わう麻布十番の喧騒を避けるように筆者は足を西麻布に向けた。
古いウイスキーに詳しいと思われるバーを尋ねまわって出てきた、たった一つの証言……最後まで謎だった「カメオ」らしき酒を西麻布のバーで飲んだ記憶があるという、とあるバーで出てきた話を確かめるためである。
やがて悲しき
「カメオ・ブランド?……私の店では扱ったことが……」
たどり着いた西麻布のバーの店内。FM放送でよく見るDJのピーター・バラカンに似た端正な顔立ちのバーテンダーは申し訳なさそうに、そう口にした。彼の背後に並べられたモルトウイスキーは優に400本を超えているだろう。極端に照明を落とした店内に瓶のシルエットだけが林立するさまは、さながらモルトウイスキーの深い森に迷い込んだような錯覚を起こさせる。
不思議に失望は感じなかった。むしろ、二カ月近くに渡って寝ても覚めてもラムゼイ(ゾルゲ)を追いかけてきた旅に、夕暮れの森に迷い込んだような西麻布のバーで終止符を打つことができたことに安堵する自分がいた。
「イーカ(ゾルゲの幼名)は一本気だ。前に道があるとわかると、真っ直ぐ突き進む」と評していた、同じ諜報部に属するゾルゲの友人フェディア・クラウスが漏らした独白がある。
「一つだけ覚えておかなきゃいけない。僕ら(外国人の赤軍諜報第4部の部員)には2つの可能性しか残されていない。敵に首を縛られるか、味方に銃殺されるかだ」
日独ソ三国協定さえ夢見ていたスターリンを裏切ったドイツ人の父を持つゾルゲを救国の英雄として迎えるほど、スターリンは寛大でも鷹揚でもなかった。フェディアその人を含めた赤軍諜報第4部のゾルゲのかつての同志たちの悲惨な末路が、それを証明している。
スターリンが生きている限り、ゾルゲはたとえ日本から首尾よく脱出できていたとしても、その末路は明るいものではなかっただろう。無線技士だったクラウゼンは進駐軍によって釈放された後も東ドイツで生き延びたが、ラムゼイ機関のリーダーだったゾルゲが御前会議の最高機密というパンドラの箱を開けてしまった瞬間から、彼には安住の地はなかった。
いまだバブルの名残をとどめたかのような瀟洒な店が並ぶ夜ふけの西麻布を徘徊する筆者の脳裏には、ゾルゲが何度も耳にし、ゾルゲ自身も歌っていたであろうドイツ語の「ワルシャヴィアンカ」とロシア語の「インターナショナル」が何度もリフレインしていた。
(画・藤原カムイ)