日本に洋酒文化が定着していったプロセスを追う本シリーズ。その手がかりとして最初にスポットを当てたのが、大正期から現れたモダン・ガールたちだ。さて、史料をあたっていると、洋装の彼女たちというのは実は少なかったらしいことがわかってきた。
モダン・ガールの実像を誰も知らない
読者の方々は、「モダン・ガール」と聞くと、当時の朝日新聞に掲載されたこの辺の写真(左)を思い浮かべるのではないだろうか。
世間で一般に大正モダニスムを象徴するエピソードとしてモダン・ガールが使われる場合、まずはこの写真をどこかに置いて、あとは平塚らいてうの「青鞜」※に触れるか、資生堂の説明に入るか、賑わう銀座通りに筆を進めるか。そのアプローチはさまざまだが、モダン・ガールに関する説明はそこそこに、本題の女権運動や街の歴史、大正デモクラシーに入っていく場合がほとんどだから「モダン・ガールって普段、どんな生活をしていたの?」とあらたまって聞かれると、たぶんほとんどの方が首をかしげることだろう。
彼女は一人の実在する人間として、どんな仕事をしていたのか。給料はいくらぐらいだったのか。どんな趣味を持ち、異性からどう見られ、何を口にしていたのかと立て続けに質問されると、誰もが容易にイメージできたはずの実像は霞のように消えていく。
正直に告白すると筆者もリサーチを進めるまではそうだった。
洋装の女性はどれほどいたか
そもそも、当時の女性は街を歩かなかった。
いや、つねに和服の裾をからげて血相変えて走っていたとか、逆立ち歩きを覚えることが嫁入り前の女性のたしなみだった、というわけではない。銭湯を中心として街それ自体が生活のために完結しており、晩飯の刺身なら向こうの魚屋、亭主を送り出したあとの世間話ならあちらの井戸端で、用が足りていた。朝のおつゆに使う豆腐に至っては、向こうからラッパを吹いてやって来た。
つまり、市電に乗って浅草、ましてや銀座に繰り出すのは、庶民にとってはよほどの用事があるときであり、洋装のご令嬢など、たまに見に行くキネマ(映画)でしかお目にかからないという人もたくさんいた。その事実を示しておきたい。
100人に1人のモダン・ガール
「今日は帝劇、明日は三越」という、大正2年の帝劇パンフに書かれた名キャッチコピーを思い出して反駁したくなる方もおられるだろう。百貨店で買い物をしたり、帝国劇場で七代目松本幸四郎の勧進帳に熱を上げる女性がいたことは、間違いない。今以上に貧富の差が大きかった大正時代だからこそ、“富”に属する恵まれた階層の紳士淑女が消費生活を謳歌していたことも事実だ。
しかし、金持ちの令嬢が洋装に身を包み、銀座の街を闊歩していたか……となると、話は少々違ってくるのだ。
ここに面白い資料がある。大正15(昭和元)年の12月2日、当時トップ・モードの代名詞だった資生堂美術部門を通った人の男女別と服装を1時間定点観測して記録した貴重な資料だ(前回断ったように、出典は後日明らかにする)。
それによると、男性が1151人で洋装と和装の比率はおおむね7:3。女性は522人通りかかっているのだが、外人も男女ともに11人見かける最先端の場所であるにも関わらず、街を歩く人々のなかにモダン・ガールに該当しそうな洋装の女性は22人。わずか1.4%に満たない。しかもモダン・ガールの語源説の一つであるショートカットの女性に至っては、わずか1名しか記録されていないのだ。
モダン・ガールは作られた虚像か
なぜ巷の書物で語られるモダン・ガールの説明文が通り一遍で、同じ写真ばかりが繰り返し使われるのか、これで読者の方々にも理解していただけると思う。
ブームとか流行といったものは湧いてくるものではなく、仕掛けるものだということは、アパレル業界では常識なのだという。今年秋の流行色は去年の冬には決まっており、春には中国かタイかインドネシアあたりで揃いの作業服に身を包んだ女性たちが、数カ月先に来ることになっている流行色の布地を前にして、ズラリと並んだミシンがうなりを上げている。〇〇現象とか△△ブームもその類(たぐい)で、まず大抵の場合は仕掛け人がいるという。
戦前のモダン・ガールは、当時の腕利きの宣伝マンが仕込んだ幻に過ぎなかったのだろうか。
※「青鞜」:フェミニストの平塚らいてうが始めた雑誌。「元始、女性は實に太陽であつた」で始まる巻頭言で有名。
(画・藤原カムイ)