日本におけるリンゴ栽培の歴史は平安時代の観賞用から始まっているのだが、食用栽培が始まったのは明治2(1869)年北海道の七重村(現七飯町)へのプロシア人ガルトネルの植樹以降のことであり、果物としてはまだ新しい部類に入る。
大正・昭和のシードル事情
シードルの国内販売についてはそれから40年ほどたった大正2(1913)年7月に製造を開始した日本シードル會社の広告が最も古い販売記録となる。当時の専門紙「飲料商報」掲載の広告によれば、そのシードルはノルマンディー産の果汁をわざわざ取り寄せて商品化した意欲作だったようだが、残念ながら日本に根付くことはなかった。
日本の洋酒史に次にリンゴ酒が登場するのは昭和10(1935)年の壽屋(現サントリー)の「リンゴ酒シャンパン『ポンパン』」となる。天然リンゴジュースにアルコールとブドー酒を加えて造られていたという。これがけっこう広い地域に普及していたらしく、北朝鮮にある抗日映画撮影用に作られた戦前市街のセットに森下仁丹の将軍ポスターと並んでポンパンの広告が掲げられていたのをテレビで見て驚いた記憶がある。
筆者は実際にポンパンを口にしたことはないのだが、戦前ワインの代名詞だった「蜂ブドー酒」や「赤玉ポートワイン」と現在の一般的なスティルワインの味が違うことから類推するに、現行のシードルとはかなり味の骨格が違う物だったと思われる。
フランスで生まれイギリスが支えるシードル
それでは、まだ一部の方々にしか知られていない各国のシードル事情について触れておこう。
ニュージーランドは言うに及ばず、スペインやアメリカさえシードル生産国として日本では知られていなかった2010年代まで、ニッカ以外の輸入シードルと言えば「量のイギリス」「質のフランス」が拮抗していた。そんな時代にはパブで出されるイギリスの缶入りシードルを「工業製品」だと揶揄するバーテンダーもいたほどで、高級フレンチや小洒落たカフェで供されるフランス産が日本では輸入シードルの“顔”だった。フランス料理の中でも独自性の強いノルマンディー料理を出す場合か、ブルターニュのガレット(そば粉クレープ)と共に供される時代が長かったことからも判るように、シャンパンを飲み慣れた“選ばれた人々”や、女性雑誌を飾る流行記事に人一倍敏感な女性が日本シードル前史を支えてきたわけだ。
筆者の手元にある唯一のシードル資料本「CIDER HARD & SWEET History, Traditions, and Making Your Own」(Ben Watson著、2000年)によれば、15世紀にノルマンディーで生まれたのが世界のシードルの始まりだという。歴史を誇るだけにノルマンディー近辺はシードルにまつわる話に事欠かない。カーンからリジューの間にある1周40㎞ほどの環状道路はシードル街道(Route du Cidre)と呼ばれており、赤いリンゴのイラストをあしらった道路標識が道々に掲げられている。毎年10月末にはリンゴの収穫祭が行われ、鉄道も走っていない小さな村々が多くの人でにぎわうという。
本稿を書いているとき、ノルマンディーと並ぶシードル銘醸地ブルターニュ出身のフランス人が知り合いにいたことを思い出したので、彼が子供の頃のシードル周辺事情を聴いてみた。今から40年以上前、彼が子供の頃は普通に家々にシードルの樽があり、子供たちは咎められることなくシードルを飲んでいたという。
「炭酸が抜けていくのはしょうがないとしても、酸っぱくなったシードルには参ったね。ガレット用のソバの収穫シーズンにはお手伝いの人達が何十人もやって来るんで、飲料水がわりににカーヴ(酒蔵)からシードルの樽を出しておくんだ。ワインはよその地方から運んで来るんで高かったし、味もシードルの方がうまかった。みんなで一つのコップを回し飲みさ」
日本で連綿と続いてきた輸入シードルの文化はフランスによって支えられてきたわけだが、ヨーロッパではいささか事情が異なっている。イギリス産シードルがヨーロッパ消費量の半分以上のシェアを占めているという驚きの事実があるのだ。イギリス産シードルはブラムリー種のリンゴで個性を際立たせている。各国のシードル特産地を除けば、ヨーロッパの人々がシードルと聞いて連想するのはイギリス産のサイダーの味というわけだ。
イギリスの食事に欠かせないシードル
会場で司会と進行役を務めた株式会社ワイン・スタイルズ代表取締役の田中球恵さんによれば、イギリスでシードルの原料となるリンゴのおよそ半数をブラムリーが占めるという。クラフトビールの流行が先にあり、クラフトビールの醸造所がやがて個性もさまざまなシードルを造り始めたことを知ったのが、彼女がイギリス産シードルに魅せられるきっかけになったという。日本では見たことがなかったスティル(無発泡)タイプの物があったので試飲させてもらう。筆者はシードルの硬質な発泡感がいささか苦手なのだが、これは飲みやすかった。
イギリスの飲食文化とブラムリー種のリンゴの関係は一通りではないものらしく、在英中にブラムリー種の魅力に取りつかれた人々が日本へ帰国後に作った「ブラムリーファンクラブ」まであるという。イギリスのサイダーを輸入する傍ら、自らもブリティッシュ・シードルを出すパブ「フルモンティ」が桜木町にあることまで来場者の話から知ることができた。イギリスのシードルと言えば「ストロングボー」しか知らなかった筆者としては勉強になることばかりだった。
「フルモンティ」(全裸、の意)といういささか過激な名前のこのパブのお客は7割方は外国人で占められるのだが、たまたま会場でお話をうかがったフルモンティのご夫婦からメールでお招きがあり、10月下旬に開かれたシードルイベントに筆者もお邪魔してきた。今回も世界各国のシードル(仏)/サイダー(英米他)/シードラ(スペイン)を60種類以上ドラフトとボトルで準備し、性別も国籍も様々なお客がシードルを片手に深夜まで盛り上がっていた。
新世界のシードル
アメリカ、ニューハンプシャーでシードルが造られるようになったのは17世紀だと言われる。アメリカはバーテンダーの始祖ジェリー・トーマスを輩出したカクテルの国であり、コーン・ウイスキーの国でもあるが、その前にはライ・ウイスキーの時代があり、さらに遡るとラム、そしてアメリカでも生産が可能なリンゴを使った蒸留酒アップルジャックが同国の国民酒だった時代がある。「LAIRD’S」というブランドが有名だが、日本には入って来ていない。
蒸留酒のアップルジャックがあるからには、その前段階となるリンゴの醸造酒がある道理で、それがアメリカのシードルというわけだ。イギリスから宗教的な迫害を受けて新大陸に逃れてきたピルグリム・ファーザース、つまり現在のアメリカ人の祖先にあたる人々が口にしていたのがシードルだと聞くと、ちょっと味わいも違ってくる。
筆者としては1tのリンゴから搾汁できるジュースの量まで厳密にAOC(原産地呼称と製法規定)で固めたフランス産シードルの歴史と完成度は尊重しつつも、西部劇の時代よりさらに昔のアメリカで飲まれていたにも関わらず、つい最近までアメリカ国内でも忘れられていた忘れられていたシードルの意外性にも興味が尽きない。LAIRD’Sのアップルジャック自体は我が家に1本あるのだが、去年までその存在さえ意識していなかったアメリカのシードルに筆者が初めて接したのはひょんなきっかけからだった。