トレハロースの大量生産を可能にしたのは日本の技術で、酵素を用いるプロセスだというところまで話してきた2人。その技術をタクヤがまた怪しげな喩えで説明する。
2つの酵素の組み合わせで量産
リョウ 「来たか。ごくろう」
タクヤ 「今日はお月見ですね」
リョウ 「旧暦8月15日。中秋の名月ってやつだな」
タクヤ 「なので、これからおだんごなど買って来てお月見飾りなんかしちゃおうかと」
リョウ 「ほう。だんごの話に戻るね、お前は」
タクヤ 「いや、そういうつもりではないんですが」
リョウ 「でだ。かつてキロ当たり数万円はしたという高価なトレハロースが、誰がどうやっておだんごなどの安価な商品にも使えるようにできたのか、だ。前回はその決め手は酵素だったという話で終わったんだ」
タクヤ 「岡山に林原という会社があります」
リョウ 「知ってるぞ。猿を飼ってた会社だ」
タクヤ 「ああ、以前チンパンジーの研究もしてましたね」
リョウ 「あと不正経理が発覚したり、社長以下役員が辞めることになったり、結局倒産したり、いろいろあった会社だ」
タクヤ 「ですね。でも、そのあたりの話は避けて行きます」
リョウ 「逃げるのか」
タクヤ 「マネジメントの話は現代素材探検隊の守備範囲外なので」
リョウ 「まあな。で、なんだ、その林原がトレハロースの低コスト量産に成功した会社ってことなのか?」
タクヤ 「そうです」
リョウ 「で、どういうワザを使ったんだ?」
タクヤ 「この前、焼鳥の先っちょの話をしましたよね」
リョウ 「ヒドロキシ基の配列ってやつを、お前はネギマに喩えやがった」
タクヤ 「あれと、ちょっとイメージが被るというか。別な喩えでいきますが。陶芸で、ろくろを回して器を作っているところを思い浮かべてください」
リョウ 「また、理科の人だと絶対言わないような思い切った喩えで来たな」
タクヤ 「あれって、大きな土の塊を回しながら、上のほうだけ形を作っていきますよね、まず」
リョウ 「手を当てて、上から指を入れたところが器の内側になってって、湯飲みなら湯飲みらしく形を作っていくな」
タクヤ 「で、形が出来上がったところで、糸を当てて下の土の塊から切り離しますよね」
リョウ 「だから茶碗の脚の部分を『糸底』って言うんだ」
タクヤ 「そんな風に、大きな塊の先っちょのところをまず望む形に変えて、それから切り離すイメージ」
リョウ 「それが何だ?」
タクヤ 「この土の塊をデンプンだと思ってください。で、先っちょで器の形にした部分、これがトレハロースになった部分だと思って」
リョウ 「はあ。デンプンの分子の端っこのところをトレハロースにして、それから本体から切り離すという順番だと、お前は言いたいわけか」
タクヤ 「そういうわけでして。まず、デンプンの一部をトレハロースの構造に変える酵素があります。で、そのトレハロースになった部分をデンプン本体から切り離しちゃう酵素が別にあります。林原の技術者は、この2種類の酵素を見つけて組み合わせることを考えたわけです」
リョウ 「ふーん。みなさん、ゆめゆめ、デンプン分子が粘土みたいなものだとは思わないでください」
タクヤ 「ははは。まあ、そういう順序でいくものだということだけわかっていただければ」
リョウ 「材料を先にちぎっちゃって、それから形を作るというのではないわけだな」
タクヤ 「そういうことで」
リョウ 「で、キロ数万円がいくらになったんだ」
タクヤ 「キロ数百円ですね。林原の通販サイトを見ると、2kgで1000円というのがあります」
リョウ 「安売りのグラニュー糖の倍ぐらいか。工場でトン単位で買うともっと安いのかもしれないな」
タクヤ 「たぶん」
エスキモーに冷蔵庫を売る
リョウ 「しかしな、チンパンジーの研究の会社がこんなの開発するとは驚きだ」
タクヤ 「いやいや、猿よりも酵素とか微生物の活用などはもともと林原の得意分野ですよ。もともとは明治16(1883)年創業の水飴屋さんで、戦後はブドウ糖とかマルトースとかを量産する技術開発をして、このあたりで酵素研究を進めたんでしょう。あと、インターフェロンの会社としても有名でした」
リョウ 「インターフェロンて、抗がん剤?」
タクヤ 「そうそう」
リョウ 「水飴から薬へと進んだわけだ。ふむ。猿の先には一体何があったんだろうな……」
タクヤ 「そこんところもたぶん現代素材研究隊の守備範囲外ですが、2億円で京都大学に寄附研究部門を作って、チンパンジーも引き取ってもらったそうです」
リョウ 「ははあ。サル学ったら京大だよな。で、トレハロースについては、これが欲しいという会社がいっぱいあると調べて……」
タクヤ 「それが、発売当初は営業の人たちがけっこう苦労したようですよ。研究者たちにはトレハロースは有用と知っていた人はいたでしょうけれど、普通の人はほとんど知らなかったので」
リョウ 「こんなのありますけど、使ってみてくださいと説明して歩いたのか」
タクヤ 「お菓子屋さんとかを重点的に回ったようですね。それでだんだん『こりゃすごいぞ』と食品業界に知られていくようになったと」
リョウ 「売れるかどうかわからんうちから開発するなんて、思い切った経営だな」
タクヤ 「あ、でもそういうものってけっこう多いですよ。味の素も最初は営業の人が必死に料理屋さんとか回って、でも門前払いされたりとかっていう時代があったと聞きますし。カゴメのトマトケチャップも、キユーピーのマヨネーズも、売り出した頃は誰が見ても『ナニコレ?』の世の中だったわけで。サントリーのダルマ(サントリーオールド)だって、あれは『和食に合わせてください』って、日本料理店やすし店に営業をかけたそうですが、やっぱり最初は門前払いされることが多かったと」
リョウ 「出来ちゃってから売るやり方。エスキモーに冷蔵庫を売るやり方」
タクヤ 「でも、食品に限らず、世の中をがらりと変える商品て、そういう作り方になるようですよ。お客さんの話を聞いてお客さんの望むものを売ろうと考えているうちは、普通のお客さんの想像の範囲を超えないですからね」
リョウ 「ニーズに応えるだけなら、詰まるところ誰がやっても同じってことになるもんな」