前回の、利益(ベネフィット)と危険性(リスク)を秤にかけて考えるということは、もちろん交通機関だけの話ではない。危険性を最少にするという努力こそ、あらゆるリスク管理に通じる対応だと言うことができる。
安全でなければ危険ということではない
“安全ではない”=“危険で利用できない”ということにはならないのだ。「誰も安全と言い切ってくれないから危険」ということにもならない。
裏を返せば、便利だと使われているものでも、ほとんどすべての商品・サービスには、わずかでも危険性は残っているものだ。そして、誰かがそれをとらえて「危険がある」と言ったとき、それへの反論は難しいということになる。「いや、危険はない」と言えば言葉だけの“安全宣言”であり、原発ムラであったように、その言葉のために正しい対策を怠り、隠し事も生じるということになりかねない。あらゆる仕事は、常に“想定外”の不都合が発生し得ることを考え、謙虚にリスク管理をする必要があると思う。
もとより、筆者は安全管理の専門家でもないが、真剣に農産物の安全性について考える場合、前提としてこのような事情を踏まえておきたいということである。
他を中傷する宣伝は農業界では当たり前
さて、農産物の安全性である。果たして農産物については、これまで述べてきたような一般的なリスク評価とリスク管理がされているだろうか。
現在、日本の農産物には安全を謳うものが数多くある。それどころか、他の農産物が危険であると思わせるような広告さえまかり通っている。このような宣伝は、リスクを考えるために例として挙げた鉄道、自動車、航空産業では考えられないことだ。自動車メーカーA社が「B社の自動車は危険だ」と思わせる広告を打つだろうか。航空会社が「鉄道は危険だから乗らないようにしましょう」という広告を打つだろうか。おそらくそれらは不正競争ということになるだろうし、企業のモラルとしても(とくに日本の場合)問題になり、むしろ消費者はしらけるだろう。
ところが、農産物市場では日常茶飯事である。「農薬を使っていない安全な野菜」「遺伝子組換え不使用」など、使用が認められているものについて“不使用”を訴求するものが代表的な例だ。
農産物についてこのようなことがまかり通るのは、農業生産の現場や農作物の実態を、消費者が知らないために違いない。たとえば自動車なら、多くの消費者がその危険性と利益を自分の問題として身をもって理解している。しかし、農業生産に携わったことがなければ、資材や手法ごとの利益と危険性に関する情報がなく、自分では判断できない。その人たちに「アレは危険です」とささやく人がいれば、反論の材料がないだけにすんなりと信じてしまうのだ。
まず、そこを解決したい。その前提として、まず現代の農業生産の実態と、それに至る資材・技術の変遷をレビューしていく。
「清浄野菜」という言葉が意味するもの
今、レストランでもコンビニでも、サラダは普通に提供されている。もちろん家庭でもサラダは盛んに食べられている。一般的な食べ物の一つだ。
ところが、実は“ついこの間まで”、生野菜というものは、どちらかと言えば食べてはいけないものだった。
筆者は50代であるが、子供の頃生野菜が食卓に上ることは少なかった。野菜はゆでたり漬物にしたりと加工して食べるものであり、生野菜食は奨励されるようなものではなかった。
それは、もともと日本に生野菜を食べる習慣がなかったためでもあるが、なぜそうなったかと言えば、回虫やギョウ虫などの寄生虫を避けるためだ。
化学肥料の値段が高く、また手に入りにくかった時代、日本で肥料として盛んに用いられたのは下肥(しもごえ。ヒトの大小便を肥料にしたもの)であった。かつては都会から下肥を運ぶ貨物列車もあったくらいなのだ。ところが、これが寄生虫を蔓延させる原因となっていた。寄生虫を持っている人に由来する下肥が畑にまかれることにより寄生虫の卵が畑に散布され、その畑で育てられた野菜に寄生虫の卵がつき、その野菜を食べた人に寄生虫が宿るという循環である。
生野菜を好んで食べる今日の若い人には想像もつかないことかもしれないが、寄生虫感染を免れるために野菜を中性洗剤で洗うことすら行われ、中性洗剤のCMでも「食器と野菜に」などと紹介されていたものだ。
“清浄野菜”という言葉がある。これの言葉が使われ始めた当初、この言葉は「下肥を使わず、化学肥料を使用した野菜」という意味で使用されていたのである。化学肥料を使用して下肥を使用しなければ寄生虫を避けることができるため、化学肥料の使用が推奨されていた時代があったのであり、清浄野菜=化学肥料を用いて栽培した野菜は“寄生虫の心配のない安全な農産物”としてもてはやされていた。
日本国内でサラダが盛んに食べられるようになった東京オリンピックから大阪万国博覧会の頃、農産物の安全について最も注意されていたのは、寄生虫の有無であった。現在は、そのようなことを気にする人は全くといっていいほどいないが、人が農産物の安全性に期待するものも時代とともに変化するということである。