2009年10月から、オーストラリアとニュージーランドのほとんどのパンにヨウ素が添加されることになりました。これにより1日約50 μgのヨウ素の摂取増加を目指しています。オーストラリア・ニュージーランド食品安全機関(FSANZ)では一般向けのFAQを公開していますので詳細はそちらをご覧ください。
ヨウ素はヒトの必須栄養素で、必要量は少ないながら甲状腺ホルモンの重要な構成要素です。甲状腺ホルモンは人体の代謝状態維持と子どもの正常な発育や発達に必要で、特に胎児と小さい子どもにとっては重要な栄養素です。ヨウ素が欠乏すると甲状腺腫になりますし、重度のヨウ素欠乏では、子どもに発育阻害と精神遅滞がおこり、聴覚や運動・認知機能への影響も出ます。
ヒトの所要量は1日150μg程度とされています。ヨウ素が不足しているかどうかを判断するには尿中ヨウ素濃度を測定するのが一般的です。WHOの世界のヨウ素欠乏状態に関する報告書(Iodine status worldwide WHO Global Database on Iodine Defi ciency、2004年)によれば、尿中ヨウ素濃度が100 μg/L以下を欠乏と判断しています50 μg/L以下は重度の欠乏とされます。適切と判断されるのは100-199μg/Lで、200-299μg/Lは超過、>300 μg/Lは有害影響が出る可能性があるとされます。ここで細かい数値を紹介したのは、適切と考えられている摂取量の範囲が狭いことを知って頂きたいからです。
ニュージーランドでは1800年代後期から1900年代初頭までヨウ素欠乏症があり、甲状腺腫は普通に見られる病気でした。原因としてはオーストラリア・ニュージーランド地方の土壌はもともとヨウ素含量が少なく、日常的にその土地の食品のみを摂っていると必然的にヨウ素欠乏症になる、ということです。いわゆる風土病だったわけです。
この問題を解決するため、1924年に食卓塩にヨウ素を添加することになりました。WHOの推奨している食卓塩への添加量としては20―40ppm(塩1kg当たり20―40mg)です。食卓塩への20ppmの添加ですと、1日10gの食卓塩を使ったとすると200 μgの摂取量になります。しかしこの効果は小さく、1938年にはヨウ素の濃度を40―80ppmに増やしました。ヨウ素添加食卓塩が導入された際には、ヨウ素添加塩を家庭で使用することの利益を広報するためのキャンペーンが行われましたが、ヨウ素が添加されていない塩も常に入手可能でした。
そして最近の調査ではニュージーランド人のヨウ素状態は介入が必要なレベルまで低下してしまっています。食塩の摂り過ぎが問題になっていて食卓塩の使用が減っていること、ヨウ素を含む消毒薬などの使用も減っていることなどが原因として挙げられています。そして04年ころからさらなるヨウ素不足対策として主食であるパンへの添加が検討されたわけです。実際にはパンを作るときに使う塩にヨウ素添加塩を使うという方法のようです。
このような方法を用いる理由は、ヨウ素不足が国民の特定集団にのみ見られることではなく幅広くほぼ全員の問題であること、ヨウ素は必要量と過剰量の範囲が狭いためサプリメントのような形での摂取には過剰摂取になるなどの問題が大きい可能性があることなどが挙げられます。
世界的にはヨウ素欠乏が問題である地域の方が圧倒的に多く、ヨウ素添加塩を採用している国が多いです。国際線の飛行機に乗ったことがある人ならば、機内食の塩の小袋に「iodized salt」と書いてあるのを見たことがあるかもしれません。
ところが逆にヨウ素摂取量が多すぎる国もあります。代表的なのが日本です。日本人のデータは先のWHOの報告書には掲載されていないのですが、07年に発表された東京の小学生654人の調査結果ではヨウ素の尿中濃度はメジアン(中央値)で281.6μg/L、1000μg/Lを超えるケースも16%もあった、とのことです(Thyroid. 2007 Feb;17(2):145-55)。つまり先のWHOの基準に当てはめると摂り過ぎによる健康被害(自己免疫性甲状腺疾患や甲状腺機能亢進症)が出るレベルにあるということなのです。とはいえ、日本で食品からのヨウ素の過剰摂取による健康被害が多いというデータはないようです。詳細に調べれば何かあるのかもしれませんが、過剰摂取者が多い割には目立って問題になっているようなことはないようです。
日本人のヨウ素摂取量の多さは海藻、特に昆布によるものです。昆布は1g当たり1―4mgのヨウ素を含み、日本人は昆布そのものも食べますし、だしとして使った料理を日常的に食べるためにヨウ素をふんだんに摂っているのです。
一方、日本人とは違って日常的にヨウ素が欠乏している人が、急にたくさんのヨウ素を摂ったような場合には、有害影響が出やすくなります。そのためヨウ素の上限摂取量というものが設定されていますが、欧米での値は1日当たり0.5―0.9mgといった数値です。ドイツではヨウ素含量が20mg/kgを超える乾燥海藻製品には健康リスクがあるため市販されるべきではないと考えられており、乾燥昆布は基準値を数百倍も上回る「危険な食品」とされています。食品の流通が世界的に広がる中で、しばしば昆布製品がヨーロッパの緊急警報システムで回収対象になっています。
日本ではこの値は非現実的で、ヨウ素の上限摂取量も3mgと欧米より高い値になっています。それでもこれを超えて摂っている場合が頻繁にあると考えられます。特に最近一部で話題になっている「(とろろ)昆布ダイエット」のような極端なダイエット方法を実践するとヨウ素のとり過ぎによる健康被害の可能性があります。「伝統的食品だから安全」では決してありませんので、注意が必要です。
このように欧米で設定される基準値が日本の実態から考えてふさわしくないように思われる事例は、ヨウ素以外にも水銀やヒ素やカドミウムなど海産物に多いミネラルなどの場合によく見られます。それらについては、国際基準の作成のためのしっかりした科学的根拠となるようなデータが日本から提出されることが望ましいと思います。場合によってはこれまで見逃されていたような僅かな影響が分かることもあるかもしれません。科学への貢献はノーベル賞を取った人が何人、ということだけではなく、リスク評価に寄与することによってもできるはずです。
ヨウ素の話からは、もう1つ考えて欲しいことがあります。地球上には天然資源が偏在しており、土地のミネラル組成などの性質は様々です。地域ごとにある種のミネラルが多かったり少なかったりすることは良くあることです。必須ミネラルの不足している土地もあれば有害重金属の多い土地もあるでしょう。昨今ブームとなっている「地産地消」ですが、地元経済の活性化のためのものではあっても安全性という視点では決してベストではないことに留意しておいて欲しいと思います。安全性の視点からは、世界中からあらゆる食品を輸入している現在の日本の状況の方が、リスクの分散ができているという意味で「より安全」と言えます。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。