2008年3月14日、欧州食品安全機関(EFSA)が、食用色素と安息香酸ナトリウムによる子どもの行動への影響に関する論文についての評価を終了し、プレスリリースを行いました(EFSAは食品添加物と子どもの行動に関するサウサンプトン研究を評価する、McCann らのある種の色素と安息香酸ナトリウムの子どもの行動に与える影響に関する研究の評価結果―AFCパネルの意見)。内容についての日本語での概要はこれを参照してください。結論としては「この研究の知見は食用色素や安息香酸ナトリウムのADIを変更する理由としては使えない」というものです。つまり科学的根拠としては弱いということです。この研究については2007年9月12日に松永和紀さんがFoodScienceで速報として伝えていますのでそちらもご覧ください。
以上を踏まえた上で、この研究の背景について少し説明したいと思います。食用色素や保存料などの食品添加物が子どもの行動に悪影響があるのではないかという説を一般に広めたのはBenjamin Feingold博士(1900年生まれ、82年死亡)です。彼は75年に出版した本「なぜあなたの子どもは多動なのか(Why Your Child Is Hyperactive)」で、合成香料や着色料を食事から除くことで多動の子どもの30%から50%が治療できると主張しています。これはファインゴールドダイエットと呼ばれ、多くの人が実践したとされます。
ただし効果は科学的には実証されていません。読者が思い思いに実行して効いたという人もいれば効果はなかったと言う人もいる、というようなものです。母親がこの食事療法を信じてしまったため、それまで効果があった薬物療法 を中止されて、悪い状態で過ごさねばならず大変辛い思いをした、という犠牲者もいるようです。
もともとFeingold博士は天然の食品にも含まれるサリチル酸塩を問題にしていて、その関連で野菜や果物以外に解熱剤のアスピリン(体内でサリチル酸に代謝される)やフェノール性水酸基を持つ抗酸化剤であるBHA、BHT、TBHQなどを避けることを推奨していました。安息香酸はサリチル酸から水酸基(OH)がとれた構造のものです。実際にサリチル酸塩不耐の人がいることは知られていて、キュウリやトマト、モモなどに反応してアレルギー症状を起こすことがあります。その概念がいろいろな改変を経て、「合成添加物」により多動になる、日本の現代風に言えば「合成添加物で子どもがキレる」という風に変形して流布されているようです。今でも米国にはファインゴールド協会という団体がファインゴールドダイエットを推進しています。ただし、ADHDの治療法としては認められていません。
そして今回の研究を行ったのはUniversity of SouthamptonのJim Stevenson心理学教授らのグループです(http://www.psychology.soton.ac.uk/people/ShowProfile.php?username=jsteven&source=acres)。彼らは発達心理学や児童心理学の専門家で、これまでの論文リストを見てみると、虐待経験や未熟児で生まれたこと、母親との関係、喘息やアトピー、遺伝的要因などあらゆる子どもの発育に影響しそうな要因を対象に研究しているようです。食品関係については04年の食用色素と多動に関する論文が最初のもので今回評価対象になった07年のものが2報目です。
この04年の報告(ワイト島研究、B Bateman et al., Archives of Disease in Childhood 2004;89:506-511 The effects of a double blind, placebo controlled, artificial food colourings and benzoate preservative challenge on hyperactivity in a general population sample of preschool children)が今回の実験のもとになったものですのでそれについて少し説明します。
この研究ではワイト島在住2878人の3才の子どもに手紙を送り、最終的に277人を被検者に色素投与実験を行いました。まず最初の1週間は食用色素と添加物としての安息香酸ナトリウムを避けた食生活をしてもらいます。次の1週間はサンセットイエロー(E110、食用黄色5号)、タートラジン(E102、食用黄色4号)、アゾルビン(E122)、ポンソー4R(E124、食用赤色102号)各5mgの合計20mgと、安息香酸ナトリウム45mgを入れたジュース300mLを毎日飲みます。次の1週間は添加物を避けた生活をします。そして最後の1週間は添加物の入っていないジュースを毎日飲みます。この4週間で1セットで、ジュースに添加物が入っているものを先にする場合と後にする場合があり、当事者には何が入っているかは知らされません。
実験開始前と投与各期間の終了時の合計5回、子どもの行動について専門家と保護者が評価しました。専門家による評価では、実験開始前から4週間後まで、子どもの様子に全く影響は見られませんでした。一方保護者(主に母親)による評価では、実験開始前のベースラインに比べて食品添加物を避けた食生活をすると多動が減ったと評価され、ジュースを飲むと添加物の有無にかかわらず多動が増えたと評価しています。リンク先の論文の図2と図3をご覧ください。
この結果から、著者らは添加物の入っていないジュースでの多動の増加がプラセボのジュースでの場合より大きいというところに注目して、添加物が多動を増やすことが示唆されたと考察しました。この考察について英国COTが妥当ではないとしたため(http://www.food.gov.uk/multimedia/pdfs/tox200511.pdf)、実験計画を変更して行ったのが今回問題になっているLancetの論文です。
この保護者の評価で興味深いことは、専門家の評価に比べてばらつきが大きいことと、実際には入っていなくとも「添加物が入っているかもしれないジュース」を飲ませることや「添加物を除いた食生活をしている」ことで大きく評価が変動することです。特に「添加物をとらない食生活」というのは、実際には安息香酸などは食べ物そのものに含まれているわけですから化学的には内容はあまり変わらないものです。しかしこれで大きく評価が変動しています。これが実際に子どもの変化を反映している可能性も無いわけではないですが、専門家の評価では子どもの行動への影響はないので、どちらかといえば保護者への影響のほうが大きいと考えられます。
さらにこの論文では色素の入ったジュースと入っていないジュースを中身の見えない容器に入れて目の前で飲んでもらって区別できなかったから盲検が成立している、と記述してありますが、実際には色素の入っているジュースは一目見てわかるほど色が違います。ニュージーランドの科学技術コントラクトであるESRのPeter Cressey博士から色素を入れたオレンジジュースの写真を日本の読者の皆様に紹介する許可を頂きましたのでご覧ください。左から無着色、タートラジン、サンセットイエロー、ポンソー、アゾルビン5 mgを入れた300mLのオレンジジュースです。そして実験に使ったのはその全部を入れた右端のジュースです。
実験ではジュースを飲んでいるのは家庭で、3歳児に300mLのジュースは少し量が多いようで、飲み残しもあります。子どものことですから、こぼしたり遊んだりもするでしょう。保護者や児童が色の違いに全く気がつかないと考える方が不思議です。
新しい実験ではこの問題点を改善するために、ジュースの中身を変えています。つまりトロピカルジュース150mL、赤ブドウジュース80mL、プルーンジュース10mL、黒スグリジュース140mL、ビートルート(火炎菜、深紅)のジュース10mL、ナシジュース20mL、オレンジジュース160mL、水55mLです。8―9才児にはこの割合で混ぜた625mLを、3歳児には同じ割合の300mLを1日の量として与えています。
これですと相当濃い色のジュースになりますので色素の影響は小さいでしょう。その代わりに味も濃くきつくなりますので甘味料としてアスパルテームを加えています。Stevenson博士らによれば砂糖よりアスパルテームの方が多動には影響がないという文献情報があるそうです。そしてさらに重要なことは保存料として加えた安息香酸ナトリウムがマスクされてしまう可能性のある量の抗酸化物質が豊富に含まれるカクテルになっています。
天然の野菜や果物にはもともとフェノール性の抗酸化物質が含まれますが、色が濃いものほど量が多い傾向があることが知られています(一部世間ではそれを健康によいなどと謳っているわけですが、Feingold博士によれば悪者になります)。天然の色素も大量に含まれます。基本となるこの混合ジュースの化学成分分析は行われていませんので詳細なデータは分かりません。これを毎日6週間にわたって飲み続けるというのは大変なことだと思います。
そして新しい研究データでも、投与物質ごとに一貫してはいないものの僅かな差がついた原因は保護者の評価によるものがほとんどだったのです。この差について、可能性が高いのはごく一部にある種の色素に対して過敏症の子どもがいる、という仮説で、Stevenson博士らは遺伝子型を検討したりしていますが、よく分かっていません。いずれにせよ学校の先生や第三者から見れば全く影響がないレベルのことですので「気にしない」で済むのではないでしょうか。もともと多動スコアは個人差があり、今回報告されている「添加物の影響」より個人差のほうが大きいわけです。おとなしい子どもの方が大人にとっては扱いやすいのでしょうが、多動スコアが少ないほど良いというわけでもないでしょう。
こうした背景を考えると、この研究の知見が根拠としては弱い、という結論が納得できると思います。この程度の「根拠」で食用色素を禁止すべきだと主張するのは無理があります。むしろはっきりしているのは保護者の気持ちが大きく影響するということです。つまり「悪いかもしれない」という情報そのものが保護者の主観に悪影響を及ぼす可能性が高いわけです。
完璧な子育てをしようと孤軍奮闘している経験の少ない母親たちに不安情報を与えれば「子どもの状態が悪くなったような気がする」と感じさせるのは簡単です。そういうネガティブ情報を使ったマーケティングは人々を幸福にはしません。真に子どもたちの幸福を願っている人なら、根拠の乏しいネガティブ情報を広める行為はしないはずだと思います。
また「疑わしいものを排除する予防原則」を採用すべきだと主張する人たちもいますが、今回の着色料の実験に関しては最も重く見ている人たちですら、着色料を排除することで病的な多動が改善されることを期待すべきではない、としています。ADHDの治療に役立つとはとても思えないものを、「予防原則」により排除しても症状の改善は見込めないわけですから、たとえ着色料が排除できても次には別のものが疑わしいとされるだけでしょう。根拠の乏しい疑いによりあらゆるものを無限に排除していくことはできません。「感情まかせの予防原則」では何も解決しないのです。
最後に、今回の論文が権威ある医学雑誌「Lancet」に掲載されたことを重要視する人もいるようですが、社会的に注目されていたり重要だったりする問題を、学術論文としてのレベルとは別の理由で積極的に取り上げるのは珍しいことではありません。科学的根拠というものは、権威ある雑誌に論文が1つ発表されたから信用できるというような単純なものではありません。有名な雑誌に掲載されれば多くの人の目に触れるので、それだけ厳しく評価されるという側面もあります。
前述のように、添加物と子どもの多動との関連についての仮説は既に30年以上の歴史があり、未だに明確な関連を示す根拠は示されていないのです。そのような背景がある研究の、過去最大規模のものが今回の論文ですので話題性は十分だったと思われます。著者らのこれで証明できたという主張とは違って、「証明されたとは言い難い」とEFSAは判断したわけです。私は食用色素の影響というものが一般の集団に対してはたとえあったとしても極めて小さい、ということを明確に示した論文だと思います。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。