中国産冷凍ギョーザ事件は、当初残留農薬の疑いも掛けられましたが、どうやらそうではなくて、犯罪性の色合いが強まってきました。全容解明までもうあと少しというところでしょうか。とはいえ、一連の報道において、特に薬剤に関する説明では、いくつか誤解を招くようなものもあり、見逃しておけません。今回は、メタミドホスやジクロルボスについて、作用機所や毒性などをまとめてみます。
メタミドホスはどう作用するのか
まずメタミドホスの性質については、食品安全委員会が「メタミドホスのハザード情報シート」を作成していますので、こちらを参照してください。少し説明が必要な部分について、次に加えてみます。
コリンエステラーゼは、副交感神経の神経伝達物質であるアセチルコリンをコリンと酢酸に分解する酵素です。アセチルコリンは神経末端のシナプスで細胞の間に放出されて次の神経細胞に信号を伝え、役割を終えると速やかに分解されます。有機リン系コリンエステラーゼ阻害薬は、コリンエステラーゼに結合することによって酵素活性を阻害します。結果としてアセチルコリンが分解されずに、コリン作動性ニューロン(副交感神経)を過剰に活性化することにより作用を発現します。
中毒症状を引き起こしているのは、もともと自分のからだの中で作られているアセチルコリンです。アセチルコリンの受容体にはムスカリン型とニコチン型があり、前者を活性化した結果現れるのがムスカリン様作用、後者がニコチン様作用です。メタミドホスで不活性化されたコリンエステラーゼは時間が経過すれば酵素活性を回復します。口から摂った場合、吸収されやすいので症状が出るのは摂取後数分から数時間後で、速やかに尿中に排泄され、組織に残留することはありません。尿中に検出されるのはメタミドホスそのものと、O,S-ジメチルチオリン酸などです。生体内で比較的分解されにくく神経での作用が強いので、毒性が高いのではないかと考えられています。
気になる中毒症状が出る摂取量
どれだけの量を摂取すると中毒症状が出るのか、という問題ですが、実際信頼できるヒトでのデータはありません。そこでいろいろなデータから推定する、ということになります。幸いにしてメタミドホスのin vitroでのコリンエステラーゼ活性阻害作用はラットやマウスとヒトの間にほとんど種差はないとされているので、動物実験のデータからある程度は推測できるだろうと考えられます。
動物における半数致死量(LD50)が毒物の毒性の強さとしてよく引用されますが、ラットでの13―23 mg/kg体重をそのまま50kgのヒトに当てはめれば650―1150mgとなります。しかし症状が出るのはもっと低い濃度です。メタミドホスの毒性として最も感受性の高い指標は血漿や赤血球などのコリンエステラーゼ活性の低下で、ラットでの単回経口投与により20%以上のコリンエステラーゼ活性抑制が見られた用量は体重1kg当たり0.7 mgで、体重1kg当たり0.3 mg/kgでは影響は無かったと報告されています(JMPR)。
このデータから急性毒性の無影響量NOAELは、0.3 mg/kgとなります。ここで知りたいのは影響が出る量ですから、0.7 mg/kgをそのまま50kgのヒトに当てはめれば35 mgとなります。コリンエステラーゼ活性の抑制は中毒症状より低い濃度で観察できますから動物実験から類推される中毒量は数十mg以上1g以下の範囲、ということになります。
このほかヒトのデータとしては、1日に体重1kg当たり0.03 mgを21日間経口投与してもコリンエステラーゼ活性の低下は見られなかったというものがあります。
ADIやARfDとの比較
農薬の安全管理のために設定されているこれらの値は、以前にも説明し通り、安全係数を用いて実質的にはリスクはないレベルに設定されています。従ってこれらの値を超えたからといって中毒症状がでることはほぼ考えられません。メタミドホスのARfDは0.01 mg/kg体重/日とされていますが、上述のようにNOAELは0.3 mg/kgです。通常動物実験データからARfDを導き出すには種差について10、個人差について10の合計100を使うことが多いのですが、この場合安全係数として用いられたのは25です。
毒性のエンドポイントが明確な病変ではなく「酵素活性の低下」だったからです。通常毒性評価では、神経細胞の変成といったような病理組織学的変化をエンドポイントとします。酵素活性の低下は、症状は無く、投与後回復するので「病変」と言うには少し大げさなものです。また例えば肝臓の代謝酵素などはアルコールや薬物、グレープフルーツなどいろいろなものの影響を受けて、常にある程度変動します。ですからFAO/WHO合同残留農薬専門家会議(JMPR)の場合は100ではなく25を用いたのです。
一方カナダ有害生物管理規制局(PMRA)は2007年案でメタミドホスのARfDを 0.001 mg/kg bwとしています。根拠にした実験動物のデータは同じで、NOAELは0.3 mg/kgです。PMRAの評価案では種差に10、個人差に10、遅発性神経傷害を考慮した追加の安全性係数3で300を用いています。その結果JMPRより1けた低い数字になっています。遅発性神経傷害は、重症の急性中毒になった場合、一部の患者に見られるとされています。
このように農薬の安全管理のための参照値は、設定根拠などを詳しく見ないと、中毒などの事例を解釈するにはあまり役に立たないものです。さらに付け加えますと、NOAELは、多数のデータの中から最も感受性の高いもの、つまり一番低い濃度で影響が見られたものを選ぶので、最も確からしい値というわけではありません。
例えばラットで10、ウサギで10、イヌで1というようなデータがあったとして、イヌが特別でヒトはラットの方に近いだろうと予想されたとしても、NOAELとしてはイヌのデータが採用されるという場合があります。これはできるだけ安全側に立って管理しようという意図によるものです。ARfDやADIはあくまで残留農薬のリスク管理を行うための値である、ということです。
ジクロルボスは毒性弱いが規制値は厳しめ
ジクロルボスについても食品安全委員会からハザード情報シートが発表されていますので物性については省略します。毒性はメタミドホスより弱く、酵素活性の阻害作用も速やかに回復し、遅発性神経傷害はほとんどおこらないとされています。注記すべきこととして、国際がん研究機関(IARC)がジクロルボスをグループ2B(ヒトに対して発がん性がある可能性がある)に分類していることが挙げられます。これはマウスの強制経口投与試験で、腫瘍発生の増加が認められたということを根拠にしています。
しかしこの試験におけるジクロルボスのマウス前胃(ヒトにはありません、組織学的には食道と同等)の腫瘍発生は、繰り返し強制経口投与(胃内に直接管で流し込む)による前胃付近での高濃度ジクロルボスによる細胞傷害によるものであろうと考えられます。ヒトの胃に相当する腺胃は粘膜で覆われていますが、前胃はそうではなく、かつ食道より物質の滞留時間は長いため、刺激による細胞傷害を受けやすいと考えられます。従ってヒトでは普通は起こらないと考えていいと思われます。
ジクロルボスについては質の高い経口での動物実験データがあまりなく、安全性が高い割には規制上の数値が厳しめになっています。これはジクロルボスの殺虫剤としての使用用途(揮発性で心配されるのが主に経皮や吸入暴露であって経口暴露ではない)にもよるのですが、もともと揮発性が高く分解しやすい物質の動物での試験は難しいということもあります。前述した、強制経口投与による発がん性試験も、普通に餌で与えられる物質であれば、する必要のない試験です。
有機リン系殺虫剤は毒ガスと同じ?
有機リン系殺虫剤について、コリンエステラーゼ阻害作用があるというだけの理由で毒ガスの「サリンと同じ」と言う人がいます。有機リン系殺虫剤にもいろいろあり、メタミドホスのin vitroでのコリンエステラーゼ活性阻害作用はパラオキソン(パラチオンの活性体)の約1000分の1、アセフェートの約1000倍と報告されています。しかし毒性が単純に1000倍違うかというと必ずしもそうではありません。
酵素活性阻害作用という作用メカニズムは、その物質の毒性を決めるたくさんの条件のうちの1つでしかありません。サリンの凶暴性はその揮発性やコリンエステラーゼとの結合が強固で不可逆的であるなど、サリン特有の性質によるものと考えられますが、農薬成分のようにきちんとした安全性データが揃っているわけではなく、比較のしようがありません(実験するヒトの身の安全を考えるとデータが必要だとも思いません)。例えばジクロルボスは動物では致死量に暴露された場合でも、死にさえしなければ24時間後にはほぼ完全に回復するとされていますが、サリンは違うのではないでしょうか。通常の毒性試験データのないものを比較対象として持ちだして「同じ」であると主張するのは普通にはあまりしないことだと思います。
メタミドホスと類似の急性症状を誘発し、動物実験での中毒用量や致死量も比較的近い身近な有害物質としてはタバコに含まれる成分であるニコチンがあります。ニコチンはニコチン様アセチルコリン受容体を直接活性化して作用を示します。アトロピンはムスカリン様作用を抑えるのには有効ですがニコチン様作用には効果はありません。危険な毒物は私たちの身の回りにたくさんあって、農薬や合成化学物質だけが有害なのではありません。タバコの煙を吹きかけられたからといって心配で心配で眠れない、というような人はあまりいないと思います。今回問題となっている商品を食べた人でも、中毒症状が出ていない場合は、サリンなどという単語に惑わされて心配する必要はないと思います。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。