結果、筆者はほうほうのていでその場を取り繕ってなんとか窮地を脱したのだが、意外だったのは日本に帰ってきてからの反応だった。男性だけならまだしも、知り合いの女性からまで「なんで行かなかったんですか!」とブーイングの嵐に見舞われた。
そう言われてみると、後になってから後悔の念がつのってきた。ベオグラードより緑も多いしのんびりしていると社長が言うのどかな街で、男たちがひとときの安らぎを求めて集まるディープな場所とは、どんな感じなんだろう。そういうところは国の内外問わず懐具合やら会計前に出て来る怖いお兄さんのリスクがあるが、地元の有力者のエスコート付きならそんな心配とも無縁だろう。日本人がまず足を踏み入れないであろうディープなスポットに足を踏み入れるまたとないチャンスを逸したことになる。くれぐれも惜しいことをした。後悔先に立たず、である。
最終日の朝
セルビアの最終日。3日も滞在しているとコテージに併設されたレストランのスタッフとも距離感が近くなってくる。「イエス、アイ、キャン」と1音節ずつ区切る軍隊英語で話すウェイターが食後にセルビアコーヒーを飲んでいる筆者とショーベルさんの前にオレンジ色の飲み物が入ったグラスを置いた。「今日は、私の、娘の、誕生日です。これは、私からあなた方への、プレゼント、です」
「お子さんはいくつに?」「3歳です」「もしあれば、写真を見せてもらえますか?」そう言うと彼はにっこり微笑んで可愛い娘さんの写真を見せてくれた。「本当にかわいいですね」「ありがとう、ございます」このとき娘さんの写真と共に微笑む彼の写真を撮り忘れたことは残念でならない。
ショーベルさんは「これから別の仕事があるんで、ここで」と言って今朝レストランでスタッフと話していたガッシリした体格の男性を紹介してくれた。
「このロッジのセキュリティ担当だから、運転は保証つきだよ。あ、ベオグラード発は?」
「13時25分です」
「それじゃ、時間に余裕があるな。また日本に着いたら連絡してくれ」
ショーベルさんはそう言って、4日間行動を共にした彼のアウディは山を下りて行った。
ボディガードのドライビング・テク
運転手のヴァシーリーさんはフォルクスワーゲンに筆者の大きなスーツケースを軽々と放り込むと、ベオグラード空港に向かって走り出した。
彼は開口一番「スイマセン、私英語話セマセン」で、セルビアのラジオを流し始める。考えてみればセルビア国境を越えてからはオーストリア人のショーベルさんと蒸溜技師のミレタさんとしか直接は話しておらず、ちょっとした挨拶はロシア語で通していたので「ニチェゴー、ニェト プロブレーマ」と無意識に答えると「なんだ、ロシア語が話せるのか!」と一気に話し始める。今度はこちらが「スイマセン、私ロシア語話セマセン」と片言のロシア語で答えざるを得ない破目になった。
日本でいちばん有名なセルビア人である名古屋グランパス・エイトのドラガン・ストイコビッチ監督の名前を出すと「あぁ、彼はセルビアのヒーローだよ」と、それまで仏頂面で「得体のしれないアジア人をベオグラード空港に送り届ける」ミッションを遂行するだけだったはずの彼の顔がほころぶ。
ベオグラード空港に向かう途中、馬車に出会った。千葉県の浦安辺りにありそうな観光用の代物とはわけが違う。筆者が本物の馬車を北海道で見たのは40年以上前だっただろうか。iPhoneの起動に手間取り、撮影のタイミングを逸した筆者の様子を見て「馬車の写真を撮りたいのか? よし、待ってろ」(状況からそう言ったのに違いない)と言うが早いか、車はサスペンス映画のスタントカーのようにタイヤを軋ませて側道にバックで突っ込み、方向転換したと見るや馬車を猛然と追走する。
馬車の目の前で鮮やかなUターンを決めるとウインドーを開けて馬丁に声を掛けた。ヴァシーリーさんの言葉からかろうじて「ヤパーン」(日本)と「ジュルナリースト」(報道)だけが聞き取れた。こうしてヴァシーリーさんのおかげで撮影できたのがこちらの写真である。
歌声ワーゲン
彼に「ウ ヴァス エスト デーティ?」(子供はいるか)と尋ねると、男の子が2人いると言う。もう筆者のリュックの中には女の子向けのシールしかない。それでもないよりマシかと差し出すと、「アルバイト、アルバイト」という。たしかドイツ語で「仕事」のことだったな、と思い出した。2人とももう大人なんだと理解する。
こういう時は中途半端に言葉が通じるだけにたちが悪い。まだベオグラード空港まで30分は掛かりそうだ。その間いったん破ってしまった沈黙の再来は結構しんどい。昨夜はあらぬ方向にカーブしてしまい、失敗に終わった手をもう一度使うことにした。「ヴィ パニマエーテ?」(知ってるか)と聞いて、ロシア語の歌詞が少々怪しい「ステンカ・ラージン」というロシア民謡を歌ってみる。彼は親指を高く上に突き出す。
「あなたの番です」は英語なら「イッツ・ユア・ターン」だが、ロシア語でどう言うかを知るほど筆者のロシア語の知識は深くない。
後から考えれば空港に行く途中の道にはそこそこ家も点在していたので、Wi-Fiの電波を拾えた確率が高い。こういうときこそ旅行中ほとんど出番がなく容量もバッテリーも準備万端だったルーターを起動させて、Google先生に聞くべきだったのだろうが、そのときはそこまで思いが至らない。
こうなればボディランゲージしかない。運転している彼の肩を叩き、手真似で歌唱を促すがシャイなヴァシーリーさんは「え。俺が? 無理無理」(おそらく)と歌おうとしない。彼が先ほどから口にするロシア語に「タヴァーリッシ」(同志)が出て来ていたので、ならばと国際労働歌(インターナショナル)を歌ってみた。もう一押しで動きそうだが、筆者が知るロシア関連歌も日本語ならともかく、そろそろストックが尽きそうだ。
筆者がうろ覚えで知っていた最後のロシア民謡「カチューシャ」で根負けした彼が、ようやく歌い始めた。一瀉千里を走ると言う。そこからベオグラード空港までの車中が互いに言葉が通じない2人の男の「ロシア民謡カラオケ大会」の会場と化したことは読者が予想するとおりである。
こうして「日本では知る人もいない東欧フルーツブランデー視察旅行」をどうにか事故もなく終えることができた。なじみのバーでは早速筆者が持ち込んだリンゴやラズベリー、プラムに洋梨といったさまざまなフルーツのパーリンカやラキアを挟んで報告会が開かれた。土産話に聞き入ってくれる方々の笑顔をハンガリーやセルビア、アエロフロートの機上でお世話になった方々に届けられたら。空にたなびくハイライトの煙を眺めながら、ふとそんな思いに駆られた。
思った以上に長くなった拙稿に最後まで御付き合い頂いた読者の方々と、ハンガリー観光協会、ハンガリー農務省、セルビアのプロモント社とセルビア旅行をエスコートしてくれたショーベルさんに謝意を表してこの稿を終わりとさせていただこう。